近事呆然☆2020年

2020年12月20日(日)快晴 寒

 なんとも、とんだ一年になってしまったものだ。この先の日々を、いったいどれだけしのいでゆけるものだろうか。世界の様相が変わってしまった。すべてに、それを想定しなくてはならないのだから、頭が塞がれているようなものだ。黒い雲がかかっているのだから、もっとも弱い感情が、まず反応してゆく。

 

 そうした中、編集・校正・贈呈送付・取次販売手配のすべてが終えたので、お手伝いをしている[別人誌]「扉のない鍵」№04のご案内が、やっと掲載できた。

 編集がすこし遅れぎみだったが、それでも発行日の11月15日過ぎには出来上がる予定だったのだが、例の「鬼滅の刃」の騒ぎの、これも渦中にあって、「製本所」をすべて押さえられてしまって、納品が12月に入ってしまった。まあ、この世の中の業界としては、喜ぶべき現象ではあったのだろうが。

 

 今号の「特集」は「新型ウィルス」だ。「新型コロナウィルス」という呼称が行われているけれど、特集の狙いとしては、今回のものに限らずに、これまでの、あるいはこれから想定される、「新しいウィルスの出現」というそのことをうまく表現できないものかという考えもあって、「コロナ」としなかった。あるいは他に限定されるものがあれば、問題が広がりすぎてしまうことだろう。

 

 とにかく、「現在の生な感情・事態」の表現に、それぞれ、よく取り組んでいる傑作ぞろいなので、ぜひ、お読みいただきたい。   

2020年10月8日(木)雨

「あぶない春もたけなわな日」と記してから、長い梅雨、暑かったけれど短かった夏、と言っても、正直言って、あまり印象に残っていない夏も過ぎて、ほぼ半年、さわやかな秋になって、川田茂さんの第五歌集『粒子と地球』ができあがった。

 

「新型コロナウイルスの日々」から、まだ抜けきらない時間の中にいて、生活様式はともかく、精神状況が、どうにも、もやもやとはっきりしないところに、デマやサギやの「魔族鳥族」が横行跋扈している。

 まさに、「外に出たものは内にあったもの」で、「ウイルス」そのものを初め、その跳梁が、[地球大]のものから[粒子状]のものまで、「精神」から「物質」にまでわたって、あぶり出されることになった。

 善いものよりも悪いもののほうが見えやすいから、それはしかたのないことなのだろうが、世界の表面でわがもの顔に力を揮っているものの「悪相」ばかりが目に痛い。

 

 みずからの力の無さ、限度を悲しみながら、自分が本分を与えられた場所で、それがみずからのできることだからだと行なえば、それが関わる人にも、おのれにも、力になる善いものがたくさんあって、それを善いものだと思うこともなく、時間のむごさの中をひたむきに、ただゆくこと、ただあること、それが至幸というものであると言えないだろうか。コロナの渦中で、そのように生きている人たちの「きれいな顔」が、目をやさしく癒やしてくれる。

 もちろん、このように記している者には、もっとも遠いそのものだ。

 

 川田茂さんの歌集『粒子と地球』は、「微視から巨視へ、凝視から透視へ!」と帯の背に、氏の「あとがき」から文言が入ったけれど、「短歌作品」は「2003年ー2014年」のものではあるが、まさにこれらの日々にふさわしいできあがりのものになった。

《画家・川田茂》の面目躍如の「カバー画」の筆使いに圧倒され、歌集の中へと誘い込まれる。「短歌作品」で駆使されている高度な技術、対象把握、ほかでは見ることのできない表現力に息を継ぐのも忘れて、苦しくなってしまう。

 

 「目次」を記しておけば、

 「粒子」の章は、

   Ⅰ 骨格探求 Ⅱ 眼の陰翳 Ⅲ 元素周期表 Ⅳ 略語連立(A‐Z)

   Ⅴ 素粒子発光

 「地球」の章は、

   Ⅰ 日本縦断紀行 Ⅱ 列島百名山 Ⅲ 十二支考 Ⅳ 二十四節気通観

   Ⅴ 地球巡回紀行

 である。

 いわゆる、「テーマ詠」というものであるが、その問題設定は、単に作品化されているのではなく、強い探究心に満ちていて、知的作業そのものの刺激物になっている。

 

 『粒子と地球』は、川田茂さんのこの二十数年にわたる営為をまとめた「第五歌集」だが、引き続き、「第六歌集」として、本集とは「テーマ設定」を明確に差異化した集が、来年、刊行される予定だ。

 同時に編集が進められてきたので、「カバー画」を初め、「連繋歌集」としての魅力もいっぱいなので、楽しみにお待ち下さい。    

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2020年4月22日(水)曇

 あぶない春もたけなわな日、待望の、大田美和思考[エッセイ]集『世界の果てまでも』ができあがった。

 

  大きく変容しつづける世界や現実の中で

  さまざまな困難に直面し揺れ動いてやまない精神。

  「思考」とは私の目に映る世界と現実を

  「試行/エッセイ」する軌跡である。

  一個の私の精神を果敢に刻む散文集。

 

 帯文である。

 内容について、詳しくは、また、あらためて記したいが、今日のところは、ぜひ、ご一読ください、とだけ、お願いのことで、すみません!    

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2020年1月20日(月)快晴

 昨年末に、ようやく刊行できた、飯沼鮎子さんの第5歌集『土のいろ草のいろ』の著者贈呈の作業をなんとか終えたので、ホームページに刊行案内を掲載した。例年と同じように、いたって始まりの遅い新しい年の仕事の進行で、おまけに、例年踏襲の年賀状の掲載も、やっと、という始末で、ほとんどの挨拶を欠礼してしまった。こんなに正月というものに、気持ちが改まらないというか、感慨を覚えない年は、まったく初めてである。世間はどんな感じだったのだろう。そんなことにも感情が動かない。そんなふうにも齢を、ずいぶんとたくさん重ねてしまった、ということにちがいない。こんなにも

哀しい年頭の感慨というほかはない。

 

 飯沼鮎子第5歌集『土のいろ草のいろ』のカバー画は、娘さんの知寿子さんの「明るいところ」という作品で、ひりひりとした精神がそこには展かれていて、歌集を開き、収録された短歌作品を読み始めるにあたって、ある緊張感を覚えさせられる装丁の感じになった。静謐で、帯に造語したけれど、じつに「清切な」一冊の雰囲気をたたえて、

 

  天乱と地変の時代のなかで

  老いを深めてゆく父母、個を

  生きようとする家族、そして

  父との永い訣れ、〈わたし〉は

  どこを生きているのだろう?

 

 こんなふうに、帯で紹介した緊張感のある、充実した歌集である。

 ぜひ、ご一読ください。    

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