近事呆然☆2018年

2018年11月29日(木)晴

 ようやく発行できた「北冬」№018に続いて、今号から発売だけでなく、編集発行作業のお手伝いも本格的に始めることとなった[別人誌]「扉のない鍵」も、できてきた。先日25日に行われた、東京平和島での「文学フリーマーケット」に、ヒヤヒヤに間に合わせることもできて、ともあれ、こちらの体調不良のため、発行が大幅に遅れてしまい、ご迷惑をおかけしたが、これもホッとしているところである。

 

 昨年11月に発行した創刊第1号に引き続いて、歌人、詩人、俳人と多彩な才能がつどって、作品、評論、エッセイに、存分に力が発揮された、充実した号となっている。「特集」は、創刊第1号で、競って力作が発表された「扉、または鍵。」をうけて、

「「ない」ということ。」 で、今号も意欲作が揃った。

 

 また、「表紙絵」は[別人]のおひとりでもある小林久美子さんが担当されていて、好評だった創刊第1号に引き続いて、今号でも、特集テーマに見事に身を添わせて、表現されている。前号では、表紙絵が表現している意味に惹かれて雑誌を手にとり、中を覗いて、作品内容の多彩さに眼を奪われたという声があったが、今号も、特集タイトルに単なる抒情を越えて立ち向かわれている表紙絵に描かれた精神が、とても美しく、さらに充実度が増した特集作品をよく導いている。

 

 今号では、副編集長の生沼義朗さんの「編集後記」を引けば、「[別人誌]というネーミングがわかりにくいという声があったので、今号から最初のページに[別人]についての理念を掲げることにする。」ということで、以下にご案内させていただく。

 

   わたしたちにはもう、開けられるべき[扉]がない。

   すでに、開かれるにふさわしい[扉]は、失われた。

   けれどなお、わたしたちは[失われた扉]を求める。

   指先にあるものは、〈それぞれ〉が繋ぐ一本の[鍵]。

 

 混迷を極める全世界のさまざまな事象を凝視し、その先へと繋ぐにふさわしいものは何かと問いながら言葉を紡いでゆく、といった感じであるらしい。

             「北冬舎のご案内2」へ 

2018年11月26日(月)晴/曇

 遥か昔のことのように、今ここを、時間はいつも、経過していって、いったいここがどこであるのか行方不明になってしまったように、そしてまた、あるいは行き方知れずというように、吹き抜ける風の中に、ただ人の形をしているばかりに立ちつくしていれば、この身こそが、古くから言われてきたように、仮の宿りという感じが、それこそ、この身に迫ってくる。この今にしている語りも昔の物語であり、この今に語ろうとする昔の物語も、それが今昔、どちらとも見分けがつかなくなってくるとは、仮に宿った身体が言い始めることだ。ただしかし、本の帯文の一行として、ずいぶん以前に記したものではあるけれど、《過ぎゆく時が痛くてならぬ。》ということだけからは、どうにも逃げきれないという、そんな感じであることが、このいまの仮の宿りの身体の本当だ。

古びの速度を増してゆく身体が、今ここで、いっそうそういうことなのであろうか。いや、ずっと、仮に宿ってきているからこそ、時間というものに痛みを覚えるのであろうか。といっても、まあ、あの一行は、苦しい精神の吐露ではあったのだったろう。

 

 このたび、ようやく発行にいたった「北冬」№018の「特集題」の「[江田浩司]は何を現象しているか。」の「現象」について、執筆者の方たちからさまざまな考察を頂戴して、とても充実した号になって、嬉しく、楽しい気持ちがいっぱいのまま、日々が過ぎている。その[現象]ということについて、提出させていただいた側も、あれこれ思うことがたくさんあった問いかけだったので、じつに有り難いことであった。

[江田浩司]さんも、とても喜んでくださっているので、途中で体調が悪くなり、予定を大幅に、いつも遅れ遅れに進むことが、よりはなはだしくなって、みなさんにご迷惑をおかけしたが、執筆者の方も、大変充実した号になっていることに、あらためて喜んでくださっているので、気持ちを休めさせていただいているところである。

 

 そのうえに、本号にご執筆くださった、俳人で、江田浩司さんの親しい先輩である、

谷地快一さんが、さっそくに、ご自身のブログ「海紅山房日誌」に、過褒のお言葉を記してくださっているので、天にも、昇ったまま、この日々を過ごしているところでもある。仮の宿りのこの身も、天にこそ昇らめ。

  谷地快一さんのブログは以下です。どうぞ、喜んでやってください。

  http://kaicoh.exblog.jp/

 

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2018年10月18日(木)晴/曇

 季節をだいぶ違えてしまったけれど、萩岡良博さんの精神性に満ちた一冊が、ようやく陽の光のもとに生まれ出た。

「桜の歌」をめぐる『やすらへ。花や。』である。小社のシリーズ「《主題》で楽しむ100年の短歌」の一冊だ。

 

 本集は、短歌だけにとどまらず、萩岡さんが深く、また幅広く蓄えてきた文学知識が存分に生かされて、小説や評論に扱われている桜まで堪能されている。読む側は、その

色つやのある文章に導かれるままに、素直に、著者と一緒に、桜のさまざまな〈光景〉を楽しむことができる。

「帯文」に、

 

   咲きそめ、咲き誇り、はらはらと舞い散る〈私の桜〉に誘われて、

  心が騒げば、西行を初めとする古典和歌、近現代を代表する名歌、

   小説、評論などの散文作品とともに、〈風景〉を歩行し、渉猟して、

     《桜》を味わいつくした、歓び溢れる花のエッセイ集。

 

と案内してみたけれど、萩岡さんの自在な筆の運びに沿えば、「読む側の歓び」も溢れる「エッセイ集」である。

 取次への登録も終え、書店に注文して購入できるので、反響も楽しみだ。

 現在、「北冬」№018も、発行に向けて、あと少しのところまで辿り着いたので、秋から冬への冷え込みに負けずに、先の時間を、ただ楽しみにしたい。

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2018年6月21日(木)曇

 2018年の月日が、まったく、ワーオ、という感じで過ぎて、梅雨の季節のまっただ中の日々にいる。

 幸い、誰一人、気まぐれな当方のことを気にかける人もなく、このホームページも、さもありなん、とばかりに、更新されないまま、尋ねられることのないのをいいことに

放置して、真冬から花の春も、遠い思いで過ぎてしまった。

 

 あれこれが、山積している重量の中、それこそ、「ガラス窓の中」から、一日の、足の短い陽射しが、しだいに明るい色を増し、そこかしこに伸ばしてゆくのを見つめているうちに、さらに今度は頭上の雲が重たくなって、今日まで来たという感じだ。

 そのような中、ようやく、「新刊」が出せた。

 大谷真紀子さんの歌集『風のあこがれ』である。

 

 先に手がけさせていただいた歌集『花と爆弾』以来、17年、これも、遥かに時間が過ぎてきた。「帯文」に、

 

      遠く、遠く、遠くへ!

      思いを風に、はるかへと乗せたいけれど、

      このここのいまを生きるほかはなく……。

 

と記させていただいたけれど、大谷さんの「心と現実」が現在へと到る、それこそ、《17年の歴史的現在》の「短歌作品集」である。

 さまざまな方面への「謹呈」もすべて終え、嬉しい反響が届き始めたところだ。「書店注文」の問い合わせも順調で、たくさん売れて、長いあいだの開店休業状態で、すっかり手元が不如意になった[極小出版]の救い主になってほしいところだ。

 江田浩司さんの『岡井隆考』も、非常な反響があって、思潮社主催の「鮎川信夫賞」も、「選者の選評」では一番の評価だったが、摩訶不思議なことに、惜しくも〈授けそこなわれた〉が、鋭意編集中の「北冬」№018には、素晴しい「江田浩司論」がたくさん寄せられていて、江田さんの多面的な表現行為の全体に迫る「大特集」になる予定なので、さらに努めてゆきたいものだ。

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          「刊行図書の評判」へ

2018年1月21日(日)晴

 2018年も、はや、大寒を昨日に、21日へと、1月も、だいぶ日が過ぎた。

 年明けに幸先良く、嬉しく、ありがたいことに、先週発行の「図書新聞」1月20日号

に、江田浩司さんの評判の力作『岡井隆考』の「書評」が掲載された。評者は大和志保

さんである。

 評は、江田さんの「思考過程」を基軸のところから理解していて、この本を読む醍醐味まで伝える、大和さんの人間的な誠実な魅力に満ちた文章で、これを読んだ読者は、すぐに本書を読みたくなることだろう。

 

 書題が、「『岡井隆論』ではなく、『岡井隆考』であることに留意したい」という敏感な言及から始めて、本書は、「評釈と論考の狭間でふるふると震えて佇んでいる……真摯な考察の書である」という内実への理解の進み行きの文章が素敵だ。

 また、結末の2段落で、「この大著には、素晴らしく詳細な「岡井隆研究史」と抄出年譜、著作一覧が附されている。/いわばこれは緒口である。この書物にはここより始まる、と記されている。」と、まとめてくださっていて、本書の的確な位置まで照らし出されて、本書を編集したものとして冥利に尽きる。ありがたいこと、このうえなく、苦労続きだった昨年から、この新しい年を、元気を取り戻して始めたい。

 

 もちろん、読後の評であるのだから、本書の問題点などもきちんと指摘されていて、この先の江田浩司さんのお仕事への、よい刺激にもなるだろうことも、随伴者として楽しみの一つである。

 

 楽しみといえば、昨年から、この6月発行予定の「北冬」№018で、「江田浩司」の特集号を企画して、藤原龍一郎さんにご協力を仰いで進行しているのだが、「大特集」になる予定である。

「特集」のタイトルは、「[江田浩司]は何を現象しているか。」である。ここ数日、

なんだか、時ならぬ「宮澤賢治ブーム」の様相を呈しているようだが、もちろん、この特集タイトルからは、『春と修羅』の「序」にある、

 

  わたくしといふ現象は

  仮定された有機交流電燈の

  ひとつの青い照明です

 

が連想されて、江田浩司さんの「現在的格闘」が、強烈な執筆陣から、ダイオードに(?)、鮮烈に証しだされる予定である。

 賢治ブームにあやかって(^~;^~)、乞う、ご期待!

 

            「刊行図書の評判」へ

2018年1月2日(火)晴

 あれこれあった2017年から2018年へと、かくして移り変わった、という感じで、例年のような「年賀状」を、「手書き」での方、「メール」での方と、ご挨拶をさせていただいたところだ。

 昨年も、一般的には、ほんの少しの「お仕事」の結果かもしれないが、どの本にも、自分なりに一生懸命に取り組んだ気持を、皆さんに、その結実として「年賀状」の画像にしてお届けした。

 その下の「ご挨拶文」は、「年賀はがき」には、スペースもなくて、印刷してはいなかったが、「メール」でお届けした方々には、うるさいことながら、年頭の感想として記させていただいた。

   あけましておめでとうございます!

 
皆様には、新しい年の始まりをいかがお迎えでいらっしゃいますか。
旧年中も、大変お世話になりました。改めて御礼を申し上げます。

昨年は、世界大におきましても、等寸大の日本におきましても、つい

に、「目指すべき良いもの」が、すっかり失われた時代に突入したこ

とが、くっきりと見えてきた年の始まりになってしまいました。個々人

それぞれ、誕生以来、「一本の鍵」を掌に握りしめながら、「開けてみ

たいほどの扉」を喪失して、風の中に立ちつくし、私たちはいったい誰であればいいのでしょうか? 「北冬舎」という活動体も、いよいよ、混迷の中で、その何かを尋ねなくてはならない時間帯に到りました。

どうぞ、本年も、よろしくお導きのほど、お願い申し上げます。心よりご健康に、良い日々をお送りなさいますこと、ご祈願申し上げます!