近事呆然☆2021年

2021年12月5日(日)曇/晴 寒

 野田和著『おしゃべり』ができあがって、先週末までに、なんとか贈呈の発送を終えたので、ご案内できることになった。

「取次「八木書店」」にも納品したので、書店から注文できるので、よろしくお願いいたします。

「ホームⅠ」に、いつものようにカバー画像を掲載した。

 

 9月に刊行した加部洋祐さんの第2歌集『未来世』の「詩人・田名部信」さんによる「カバー作品」も異彩を放っていたが、本書の「カバー・化粧扉」を飾ってくださった作品は、「五木玲子」さんの「リトグラフ」である。画題は「インド浜木綿」で、見た瞬間、内面へと圧倒的に迫ってくる力を持っている。

 

 著者の野田さんによれば、この作品は、氏の代表作とも言えるもので、以前より、個展会場の入口に飾られていたりするのを拝見して、機会に恵まれれば、ぜひ使わせていただきたいと念願していたものだという。

 今回、著者の、初めての「小説集」において、「おしゃべりすることの本然/気質」をめぐっての表現を求めたいという、「方法と技術」を凝らそうとしている作品集に、読者の眼への第一の印象として圧倒的な援けを頂戴できるものと思われ、ご使用をお願いしたところ、こころよくご了承をいただいたという。

 

 五木玲子さんと野田和さんのご縁は、「あとがき」に記されているが、玲子さんの

夫君の小説家五木寛之さんとのご縁から始まるようだが、北冬舎としては、最初期に刊行した山吹明日香さんの歌集『風返し峠』、最近では、荒牧三恵さんの歌文集『八月の光』にも使わせていただいていて、そのご厚情にただただ感謝するばかりだ。

 

『おしゃべり』に収録されているのは、「小柳老人の話」と「ぼくらの場合」の2作品である。「帯」には、「小柳老人」のほうは「老いを深める男と女の愛と性のその時を刻んだ」とあり、「ぼくら」のほうは「いつまでも終わらない少年たちの季節に彫りつけた」とあって、いずれも、「さまざまな[文/章/体]を気ままにさまよい、[おしゃべりすること]の本然/気質」を題材の中に探り求めたいとなみを主眼としている。

 あるいは、「お行儀の悪い晩節を生きた平成時代の老人たちの話」と「おさまりどころのない冴えない日々を送った昭和の少年たちの話」という題材を、おもしろく、おかしく、あるところは、しもがかって、日々の感情のおのずからなうごめきとして、その「おしゃべり」繰り広げている「試小説」と言える。

 

「帯」の「背」にある「遅れてきた老新人の試小説!」という「把捉文」に、著者は苦い笑いを浮かべ、「どのくらい遅くなったんだろうかね?」と、あきれたようすを見せたが、その「文言」を初め、さまざまな[下敷き]も作品中に敷かれてあるので、どのように読まれ、受容されるのか、楽しみにしたい。

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2021年11月9日(火)雨/曇/晴

「扉のない鍵」第5号ができ、各所への贈呈発送もすべて終えたので、ご案内することができるようになった。書店からのご購入は、「取次「八木書店」」から納入できるので、ご注文をお願いします。

 今号は、「作品特集」と「特集*閉じる」と2本立てになった。それぞれ、充実の作品が揃っているので、反響が楽しみだ。

「編集部」が新体制になって、ぐっと若返り、

 編集長=生沼義朗さん、副編集長=加部洋祐さん、とお二人の活躍で、ますます充実した雑誌になってきた。

 短歌はもちろん、詩・俳句、小説・エッセイと、総合文芸誌のにぎやかさになっている。どこから読んでも、そのあと、雑誌に掲載された作品の全部を読まずにはいられなくなる魅力をかもしだしている。  

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2021年10月3日(日)晴 暑 爽

 加部洋祐さんの第二歌集『未来世』ができあがり、著者謹呈の発送作業も終え、あれこれ時間を費やしていたら、いちはやく、辺見庸さんがブログで紹介してくださって、辺見さんの愛読者で、また、小社をひいきにしてくださる方からの、うれしいご注文の第一便をいただいて、尻に鞭、という感じで、さすがのノンビリ家のこちらも、加部さんのたくさんの読者に、遅れ気味にご紹介させていただくというようで、恐縮至極だ。

 

 辺見さんには、加部さんの第一歌集『亞天使』をブログで取り上げていただいた折にも、たいへんな反響があり、たくさんの読者からご注文をいただいた。そして、先ごろ刊行されたエッセイ集『コロナ時代のパンセ』に、そのご文章が収録され、さらに多くの読者の方からご注文をいただいたばかりであった。

 

 辺見さんは、「時代とひとの壊落の深みをみとおす目のたしかさで …… 狼狽するほどだ」とまでおっしゃってくださったので、前歌集の折につけた[衝撃の第一歌集]に続けて、[活眼の第二歌集]と打ち上げてみた。

 

 前回の[衝撃の第一歌集]という惹句には、おっちょこちょいの中堅歌人から、「自分で、[衝撃の]とは、よく言ったもんだ。」というトンマな言がネットで流布され、腹を立てたものだが、その自身は、高い[お礼]を払って、高名な先生から[帯文]を

うやうやしく頂戴するような、また、おのれでキャッチコピーを作成するような、「短歌業界内の悪しき慣習/習慣」しか知らない御仁だったので、相手をするのも下品だと思って放っておいたが、小社では、すべての本に、まったく教養というものを持たない不勉強の小生が、【血のにじむ】ならぬ、【大汗を噴き出す】苦闘の末に、糸井さんではないが、「一行一千万円の言葉」をひねり出してきているのを、ここで、江戸から長崎への道中を、加部さんがらみということで、こんなところで歩ませてもらうのも、あれから何年経っているのか、しつこいといえば、イヤな感じにもなるが、させていただいた(~^0^~)、加部さん、ごめんなさい!

 

 それで、「活眼」とは、「鋭く物事の本質を見通す目。」と辞書にある。前歌集に引き続いて、作者の「目の確かさ」による作品に圧倒される歌集になった。鋭利さにつけ加えて、奥行き、というか、柔らかみも出てきているので、いっそう豊かな世界になっているのかもしれない。

 それは、『未来世』という書題の、ひとくちでは解釈のならない、歌集全体を、あたかも【喩】としているあたりにも、表われ出ているようでもある。

 この「歌集題」に対して、さっそく、本書の「カバー・扉」に「作品=word poem

:kabe yohsuke]を提供して下さった、詩人・田名部信さんが、「no world」と英訳してくださった。

 

 わたしたちは、いま、はたして、どんな【世界】を生きているのだろう?

 加部洋祐第二歌集『未来世』の中で、ぜひ、そのあたりを探していただければとお願いさせていただくばかりである。   

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2021年7月24日(土)快晴 暑熱 30度越え

 相変わらずの、とんだ日々が続いている。あれこれ、信じられないこと、まともに眼を向けたくないようなことばかりが見えてくる。耳に聞えてくる。一年、二年と、このような日々が続いているとは、いったいなんとしたことだろう。いったいどこまで行けばいいというのだろうか……。

 日々、そんな嘆きを繰り返して、いまさらのようだが、真冬から春を過ぎ、梅雨の季節を終え、暑熱の中にいる。

 ほとんど何もしなかったように時間が過ぎて、今年になって、とは、また暢気な認識だが、初めての仕事が形になった。

 

 大久保春乃さんの第三歌集『まばたきのあわい』である。

 やわらかい言葉で、現実とその現実が孕む、あやういものやことを一首に定める、深い思索に満ちた歌集だ。現実のものやことには、現実にはないものがいつも忍び込んでいて、生きてあることが異相の情緒に変化している、というふうな世界と言ったらよいのだろうか。

 

 これまでの二つの歌集、『いちばん大きな甕をください』と『草身』の世界内存在へ相聞しようとするうたいぶりから、より精神性の深みへと降りてゆこうとする作品が目立つような感じだ。

「あとがき」に、こうある。

 

 「二十代で短歌と出会い、三十代の終わりに第一歌集『いちばん大きな甕を下さい』 

 を、四十代の半ばに第二歌集『草身』を、五十代の初めにエッセイ集『時代の風に吹 

 かれて。ー衣服の歌』を、それぞれまとめました。」

 

 着実に短歌作者としての、また散文の執筆を通しての実力を身につけ、その作品は表現の高み、深みへと到り、多くの読者の悲哀喜怒に響いてゆくだろうように思われる。このあたりのことを言うのは難しいが、良い読者に恵まれ、その魅力が伝わるように

願うばかりである。

 

 『まばたきのあわい』という書名に触発されて、「帯文」に、

 

   このここに初めからいたのだろうか

   かなたから呼ばれてきたのだろうか

   とこしえはまばたきの内にあるから

   ひとたびはとこしえに似ているから 

   いつまでも風に吹き抜けられている

 

 というふうな、かってなイメージを遊ばせてみた。なかなか、難しかった。    

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