{付録☆2012/2011}

               ◇急坂を行く《北冬舎炉暖》の切れ切れな迷想◇

2012年12月25日(火)快晴

10・3→8・6度

 夜、10時少し前、よく冷えた空気の中、誘われるように、錦華坂を下りながら、中天を見上げる。沈んだ気分の眼に、ずいぶん丸い月が、左下に星を従え、冴え冴えと輝いている。

 

 夕刻、知人から、今度の正月は寂しくなっちゃった、女房の気持ちの具合が急に悪くなっちゃって、中学生のこどもとオレを置いて、実家に帰っちゃった、と聞いて、気持ちが沈んでしまった。

 都市・大東京の暮らしはしんどい……。こころは、すぐ、いっぱいいっぱいになる。寒さのきつい土地だけれど……。

 

 むかしむかし、そんな思いの少年の日には、ヨコハマの街の「路線バス」に乗った。

 こんな日には、「路線バス」だ。そこで、先日、予約注文して買った、発行されたばかりの最新の「東京23区バス路線図」を、どうぞ!

2012年11月20日(火)晴・18・6度

 昨日は、この秋いちばんの冷たい空気だったが、今日は、ずいぶん温くなったなあ、と錦華坂を登りながら、朝のニュースの最後に見た数字の、株価が「88円8銭高」、円が「8銭安」で、駅前の不動産屋の脇に止めてあったバイクのナンバーが「14-44」であったこと、驚いたことを思い、それにしても、「日本共産党」は相変わらずどうしようもないなあ、「選挙カー」らしき車が人通りの多い歩道を横切って路地へ入ろうとして、ほとんどの車はきちんと歩行者が途切れるのを待つのに、アイツは平気で多くの人を待たせるようにして人混みに割って入って来たなあ、そんなことをするのは「日共」と「佐川急便」のトラックだけだなあと、権力的な、ガツガツした組織の、横暴で、横柄な存在は、やっぱり、ウンザリだなあ、と角を曲がろうとしたら、この間、嬉しいことがあって、ばったり、目と目が合ってしまったので、「500円」も奮発してしまった、いつもの「無宿さん」が、こちらの、いつもの「コンビニ弁当」を上回る、けっこうな「弁当]を陽だまりで食べていたので、気付かれないように少し足を速めたことなど、あれこれを思っていたのだった。

2012年11月1日(木)晴 18・3度

 この秋、一番の冷え込みで、昨日に続いて、神保町の温度計が20度を下回る。

 そういえば、昨日は、と思いながら、晴れ渡った空を見上げながら、錦華坂を登る手には、コンビニで買ったばかりの「唐揚げ弁当450円」の入ったビニール袋が下げられ、渋谷から乗った地下鉄半蔵門線で、確か、この人生で〔3度目〕の「席を譲られる事件」に遭遇したのだったな、と思い出したので、忘れないように、この{付録}に記しておこうと、無理に足を速めたのだったが、マンションに着いて、そこにいた管理人さんと、今日のよく晴れ上がった空について、しばらく話して、部屋に入ったら、すっかり忘れていたので、夜も深くなってしまったが、さっき、再び思い出したので、ここで、書いておくことにした。

 

 数年前、きっと、消耗しきっていたのだろう、初めて「席を譲られる事件」に出会った時は、ほんとうに《仰天》して、すかさず固辞した!     やはり、数年前の二度目は、終電に近い電車で、「シルバーシート」の前に立ったら、そこに坐っていた肉体系の壮年に「席を譲られる事件」にされそうになったが、2度めの余裕が、「今日は坐業が続いたので、立って、本を読んで行きます」という応答になった! 三度目の昨日の「席を譲られる事件」では、顔の前で手を振り、《苦笑》によく似た、淋しげな笑みが浮かんだような気がした。

 

 そんなわけで、今日から、誕生月の「11月」になったので、そして、なんとか、この「ホームページ」も2年目に突入したので、さらにまた、ひょんなことから「ツイッター」というものに、いま、ここで、足を突っ込みそうになっているので、【蛙蟬】名は、昔から使っていた【漂柳舎】にお返しすることにして、【北冬舎】の下の名は【炉暖】にしたい。〔音〕が「ロダン」という偉そうな名前になってしまうので、以前も躊躇して、結局、【蛙蟬】にしてしまったのだったが、「いちばん寒い舎」の、今後の〈展開〉には、{温もりを!}だ。

2012年10月26日(金)快晴

 今日は、午後二時前の明るく晴れ渡った空の下を、昨日、これは、やはり、「来た!」ということなのだろうか? と思わせることに遭遇したので、忘れずに{付録}に、久しぶりに記しておこうと思いながら、錦華坂を登った。

 昨日は、家で用足しをしてから「舎」に向かったので、午後をだいぶ回った東横線に乗った。「日吉駅」から乗り込んできた二人連れの大学生、あるいは高校生が、坐って本を読んでいた小生の前に立った。その二人の会話が、どうやら試験の話らしく、いきなり、「まくらことばがね、……」と始まったのだった。

 その前の日、ようやく、江田浩司さんの『まくらことばうた』の作業をすべて終えたところだった。単なる偶然、と言わば言え! そんな珍しい単語が耳に届いてくることなど、稀有のことだから、「これは、幸先良い、祝福された本になったなあ!」と、瞬間、思ったことだった。

 読んでいた本は、吉本隆明著『初期歌謡論』の最終章であった。最後の3章分に少し飽きて、読了する前に、『新しい天使』に関連するベンヤミンの文章などに浮気していたものだから、中途になっていた。

 その本を入れていた袋が、『まくらことばうた』のゲラを入れていたものだったから、やはり、これは、「来た!」感が濃厚にならざるをえないのだった。

 という、昨日のことを今日、記しておく。 

2012年9月26日(水)

 すっかり爽やかな空気になった夜の8時半少し前、「山背」の風は凶作の原因だろうけど、これまでの熱風で稲の育ちはどうだったのだろう、などと思いながら、うつむきかげんに錦華坂を下る。

「Eメール」で一つ、電話で2本、あまりパッとしない連絡があって、日常の編集作業は黙々と進展させたのだが、気分はまるで弾まず、まあ、多くの日は、たった一人で業務を遂行しているのだから、弾む状態とはほど遠いけれど、それでも、あまりに弾まないと、先行きが不安になって、錦華坂を下る足が心もとなくなる。

 このところ、仕事を離れた友人づきあいも、すっかり少なくなったので、孤独感に襲われるが、それも、みずから選んで過ごして来た日々の帰着するところだ。

「捨てる神あれば拾う神あり」とでも言っておこうか、「ドアが閉ざされても窓は開いている」とも言っておこうか、夏過ぎて、やっと、〈ステッパー〉と〈レッグマジック〉と〈鉄アレイ〉で、筋肉の現状を、これ以上、劣化させないようにし始めた《肉体》が、錦華坂とどう相まみえることになるか、せめても、それを楽しみにしたい……!

2012年9月5日(水)晴 蒸暑 33・1

 そういえば、昨日、ひと頃は盛んだった感覚のようなものに、訪ねて来られたのだった。

 家を出る前の、遅い朝食の折りに、家人との会話に年齢の話が出た。その一例として、舎の近くにあるG出版社のO編集発行人について、ずっと、ずいぶん年上だと思っていたら、たった一つ上だったことを、ある日、知って、愕然とした、という話をした。

 そして、夕刻、神保町の通りを九段下へ向かっていたら、一軒の古本屋の前で、そのOさんが、店先のワゴンの中の本を覗いている姿があった。

 瞬間、「出た!」と思ったのだった。

 以前は、こういうことが、よくあった。ふっ、と思い出されると、電話がかかってきたりした。日々、しばしば行き来しているわけではないのに、数年前にあんなことがあったなあ、などと思わされて、という感じで、「出現」してきた。

 Oさんは、三回くらい「出た!」。すぐ近所にいるのだから、その確率は高いのだろう。

 それでも、こちらの「アウラのようなもの」が充実していないと、そんなこともないようだ。この2年ほど、「大震災以後」は、すっかり、こちらの生命感覚が、自分でも弱い感じがして、あんまり「呼ばない」のだろう……。

 よい本造りのためだけに、ほんとうはそんな感覚を使いたい、と昨日のことを思い出しながら、「御茶ノ水駅はこっちでいいですか?」と、生真面目な二人づれのサラリーマンに道を尋ねられ、「まっすぐ行って、突き当たったら右へ行き、大きい道路に出たら左へ。大きい道路を行くほうが分かりいいから」と、親切に教えてあげたあと、夜の10時過ぎの静かな錦華坂を下りながら、思っていたのだった。 

2012年9月4日(火)曇/晴

 はや、9月だ、夏も逝ったか、というメリハリもなく、日々が寂しく過ぎてゆくなあ、などと思いながら、午後をだいぶ回って、雲が切れた駿河台の空を見ながら、錦華坂を今日も登る。

 夕刻には、集まりが予定されていたので、舎に着いてひと休みもせずに、8月末で精算の「常備」の「納品書」をまとめる。この2、3日、不得意な「算数」に取り組んでいた。やっと、「請求書」を書く。人には絶対に言えない「数字」に、ただただみずからに呆れるばかりだ。

「20冊」ほどの本を紙袋2つに、分けて入れる。この間、古書店でまとめて本を買って、一つの袋で運んだら、肩・腕・腰・脚の全般にわたってきしみを覚えたので、用心することにした。

 久しぶりに、「山の上ホテル」前の坂を、こんなに足取りが重く、不確かになるものかと嘆きながら、登り降りして、明大通りを下り、八木書店に本を届ける。

 ついに、本の持ち運びは、平均的な本の厚さで、両腕・両脚が耐えられるのは、各10冊から15冊であることを【認識】する!

 暑さも少しおさまり、仕込みや編集作業に追われているばかりだった本のまとめ作業に入り、いよいよ、秋の陣の成果へと進む日々になった。

 どれも、楽しく、納得のゆく本になるだろう、と思いながら、錦華坂を、「おぼつかない」に近い足取りで、久しぶりに明るいうちに下り、何年ぶりかに顔を合わせる編集者たちのところへ向かう。

2012年8月16日(木)晴 蒸し暑い 35度

 夜になっても、ぬるく、蒸し暑い空気をまとって、どんよりと身体を運ぶように、10時少し前、錦華坂を下る。

 一年前、強烈な暑さにグッタリし始めた「机龍之助」殿を見かねて、玄関住まいから部屋の中に入れたのが、始まりだった。普段、自分たちのためには、あまり「エアコン」を好んでいなかったのが、それを運転し始めた部屋の中は、「机龍之助」殿には素敵に過ごしやすくなった。

 それから一年、夏が来る前に、彼は「さよなら」していったが、今日はまた、別の「サヨナラ」に感慨を深くして、錦華坂を下ってきたのだった。

「北村太郎の会」の世話人を、友人たちと分担して20年、それを終えることにした。ずっと手元にあって、上げると言われていたのだが、『北村太郎を探して』という本に入れた、太郎さんの「書画」を、今日、宅急便で娘さんに送って、ケジメとした。

 一昨年より、『北村太郎の全詩篇』の刊行の話があり、一旦は発行を引き受け、「北村太郎の会」でも発表し、「発売」のめどをつけようとしていたのだが、その苦労をこぼしているうちに、ひょんなことから、別の中堅の「商業出版社」に話が通ってしまい、発行・発売が決まってしまったのだった。

 それでも、「会の連絡先」でもあり、なんとかご奉公を、と昨年は公私共に予定に入れたのだが、「原稿執筆者」の選定段階まで協力したのが限界で、「超巨大震災」もあり、離れてしまった。そして、「会」のメンバーの死もあり、あらためて協力する思いにもなれず、ついに、「会」からも離脱することを決めたのだった。

 今日の、「北村太郎さんの書画を返却する」という行為が、自分にとっての「けじめ」というわけで、ぬるい空気の錦華坂を下りながら、一昨年、昨年、今年、とさまざまな「サヨナラ」の続きに、感慨を深くしたのだった。

 2012年7月24日(火)曇・暑

 久しぶりに、夜の10時を回って、昨日、今日と、蒸し暑さが戻って来た中、うつむきかげんに錦華坂を下りながら、すこしばかり穏やかな心地が戻っているのを覚える。生沼義朗君のおかげだ。

 先月末に本ができて、手渡しで、喜びを分かち合って以来、1か月ぶりに生沼義朗氏と会い、あれこれ、だいぶ、新歌集『関係について』の反応が出始めたのを、再度、喜び合う。

 早くも、昨日の「毎日新聞」に紹介が出ていたのを教えて上げる。こちらも、「応援団」からの親切な連絡で知り、いつも助かる。

            ………………

 各氏の生沼義朗第二歌集への「言及」は、おいおいここに紹介させていただくことにするが、懇切な《読み》が繰り広げられると、作者以上に安心する。[読み切っていた]以上の読みが示されると、嬉しくなって、感嘆の深い息を吐くばかりだ。

 また、二人とも、共通の知り合いの歌人からの《読解》と《批判》に、納得したり、誤読だと素直に首肯できなかったりで、話が弾む。

 夜のとば口から、今日も、お祝いに奮発したいと申し出るも、生沼君に遠慮されて、それでも「ヒルトップ」の定食Bコースを食べ、閉店まで、あれこれ、あちらこちらに話が飛び、酒飲みには信じがたい時間が過ぎてゆくのは、いつものとおりだった。

            ………………

 もう、どのくらい時間が経っていたのか、以前、神保町の靖国通りの歩道で、これまた、どのくらいぶりだったのか、バッタリ出くわし、立ち話をしていたら、通りすがりの、小生よりやや若い壮年が、「ああ、昭和だなあ」と、声を掛けて行ったことがあったが、その、立ち話の相手の、五柳書院の小川さんが、暑気払いのように、のんびり、「ヒルトップ」で過ごして、帰ってゆくのを見て、「お元気ですか?」と言ったら、「元気です。あなたは?」と返ってきたので、「あまり元気ではないです」と答えたら、「元気そうに見える」と笑って出て行った。

2012年7月6日(金)曇-雨

 俯いて、梅雨の日の、どんより曇る錦華坂を登る。足が、まったく上がらない。蒸し暑さに、発送の疲れがどっと出た感じだ。かろうじて空を見上げて鼓舞しようとするも、《天の川》の向こうが思われ、涙が滲んできた。「見上げてごらん夜の星を」を小さく口笛で吹くと、いっそう滲んで、溢れそうになったので、やめた。

 舎に着いて、用意してあった、新刊の生沼義朗第二歌集『関係について』を、【八木書店】に届ける。【東京堂書店】分と店売用だ。全部で13冊だが、すっかり、持ち運びがきつくなる。この冊数が限界になってきた。【山の上ホテル】前の坂を下る足が、よろけた。

2012年6月13日(水)曇/晴

 今日もまた、錦華坂を登りながら、梅雨寒の一日に、何か、多少でも気分が引き立つ感じにならないものかと思い、この冬を【老犬机龍之助】と籠るように終えて、すっかりなまってしまった足腰を、いくらかでも力の入るものにしたいものだ、そうだ、歩き方を変えてみようと、さっそく実行に移してみると、急坂にかかっても、わりと足が動いて、【明治大学生】を、久しぶりに一名追い越して、【中村幸一教授】のことを思った。

 すると、【中央大学教授大田美和】さんのことが思い出されて、そういえば、二人とも、あまり損得勘定をしない人柄だなー、と思いは続いたが、〈大学教授〉という恵まれた世界の住人だからなのかと、少し羨む気持ちになってしまった。【タモリ】が以前、よく口にしていた「三ミ一体」=「ねたみ・そねみ・いやみ」の気分になってしまった。オオ、いやだ、こんな気分は! 梅雨寒のせいだ! と呪いながら、錦華坂を登りきった。

 そういえば、【タモリ】氏とも一緒に、たくさん売る仕事をしたことがあった。そのうち、また、スキャンして、ここに、その本を紹介して、ちょっと、気分を盛り上げてみることにしよう!

2012年6月6日(水)曇

 今日もまた、地下鉄から靖国通りに出たところにある温度計を、まず見る。「22・2度」だったので、「6月6日」の日付といい、これはどうなんだろう、と思う。駅のデジタル時計で、「14時44分」を、よく見かける。これも、どうなんだろう。【中村幸一】教授に訊ねてみようと思うが、氏との仕事が少し遅延しているので、連絡が取りにくい。あと少し進行したら、「メール」でも入れてみよう。氏の動向は、「ブログ的傑作コラム」で、時折り知ることができるので、ありがたい。

 

 夜の10時過ぎ、仕事を終え、錦華坂を下る。今日の郵便物に、尊敬する年長の編集者が闘病生活に入り、自身で、仕事歴を冊子にまとめたものがあった。その、編集者KKさんのことが思われて、気持ちが沈みながら急坂を下った。小生のような愚鈍な人間にも、分け隔てなく接してくれて、編集した文芸書を買いにゆくと、ずいぶん割り引いて、売ってくれた。最近でも、造った本を贈呈すると、懇切な感想のはがきを、たびたびくれた。いつも、こちらの数歩前を行っているように思っていたのに、そのような日々にいたのだった。

2012年5月22日(火)雨

 今日もまた、雨の錦華坂を、神保町駅の、雨で滑りそうな階段で、この正月に会話した無宿人が松葉杖をついて降りてゆくのを見かけて、声をかけようかと、瞬間、思ったのに、そのまますれ違ってしまったなあ、と思いながら、登った。

 マンションの玄関が近くなると、このところ、いきなり逝ってしまった管理人氏が、もうそこにいないのだ、と思ってしまう。傘についた雨の雫を払い、玄関の中に入ると、引き継ぎの管理人氏がモップで濡れた床を拭いていた。

[2012年5月14日(月)]

 昨日、「書くに値した毎日」での、【松本健一】さんとの「お仕事」で、初めて手がけた【作品社】での本をまちがえてしまった。

 正しくは『戦後の精神』という本であった。「1985年5月10日 第一刷発行」なので、一年前に手がけていた。氏が、【冬樹社】から1981年に出していた『滅亡過程の文学』の続編としてまとめることを考えていたようだ。

 目次には、「橋川文三・竹内好・武田泰淳・保田與重郎・花田清輝・高橋和巳・埴谷雄高・島尾敏雄・安部公房・大江健三郎・吉本隆明・江藤淳」という名前がある。「あとがき」に、「戦前と戦後とを連続の相――その否定さえ連続が意識されている――において捉える精神が、わたしに与えた意味は何であったのか。」とある。

 氏が、さまざまな場所から求められて書いた「戦後文学者」の見取り図を、一冊の本で描こうとしたのだった。

 やはり、それにしても、遥かに来たもんだ、の思いが強い。もともと、「愚痴」の多い人間だったが、変わることのない「鬱屈」は、本質的なことを、いつも逸らしてしまう。

[2012年(平成24年)5月13日(日)]

「黄金週間」の始まりから、それを終えての一週間、夏から秋への予定の展開に、あわただしく時間が過ぎた。なかなか、余裕を持って、この場所での、「書くに値する毎日」を検証することが叶わない。

 一つだけ、忘れないうちに、ここに記しておきたいのは、連休の初日の「4月29日(土)」に「中野サンプラザ」で行われた【石川美南】さんの歌集の批評会で、20年ぶりくらいになるのか、すぐには定かには思い出せないが、【松本健一】さんとお会いしたのだった。

 氏とは、何冊かのお仕事をご一緒したが、初めて手がけた【作品社】刊の『大川周明』を、ここに紹介しておきたい。「右でも、左でも、通俗でも、その尖端へ。」という「仕事」の道筋の一つだった。奥付には「1986年8月15日 第一刷発行」とある。

 チョー久しぶりにお会いした氏は、新聞などでお見かけする写真よりも、ずっと若い感じがした。そう申し上げたら、消えいらんばかりに照れていた。ついでに、「権力の中枢で、ご活躍でしたね。」と、つい、からかってしまった。そういえば、【仙谷由人】さんの昔の〔同志〕とも、「仕事」をしたことがあったのを思い出した。

 茫々と時間が経ち、「あゝ おまえはなにをして来たのだと……」と、【中原中也】ふうにでも言ってみたいところだ。「さやかに風も吹いている/心置なく泣かれよと/年増婦の低い声もする」……か。

[2012年(平成24)4月16日(月)]

 今日もまた、東京と横浜の今年の桜は終わったな、などと家を出がけに、アスファルトに散り敷く花びらに目をやっていたのを思い出しながら、錦華坂を登って行くと、不意に口笛が「翼をください」になった。この曲は、甘ったるくて、あまり好きではなかったが、このところ、たまに口笛になる。

 この冬を、衰えゆく老犬「机龍之助」と一緒に籠って過ごして、すっかり、「机龍之助」と同様に、足腰が弱ってしまって、駅の階段で2度ほどつまづいたりしたので、「翼をください」という思いになったのかもしれない(笑)。若い日のセンチメンタルから来る「翼の要求」と違って、衰えにかかった日のそれは、切実だ(笑)。

 

 歌詞は、「悲しみのない自由な空へ」と言うけれど、老いにかかる肉体とどこまで行くのか、悲哀は尽きそうにない。おお、こんな日が来るなんて! といったところだ。老犬「机龍之助」にこそ、「翼」をあげたい!

 

 そういえば、【依田仁美】さんは、小社刊の愛犬への挽歌集『あいつの面影』で、たくさんの読者に涙を流させたが、その後、愛犬【雅駆斗】君の背中に「翼」がたたまれていたのを思い出し、「短歌のあるエッセイ」で、いっそう哀切な「作品」にしたのだった。その、「「北冬」№012」に発表した「有翼の犬」は、「短歌」と「エッセイ」が見事に交響し、「哀しみ」を鏡面に映し出した。

 

 桜の日々は、「終わった」のではなくて、どこかへ「通り過ぎて行った」だけではないのだろうか? わたくしたちの日々も、「終える」のではなくて、いずれかへ「通り過ぎて行く」だけではないのか? などと、あれこれ、思い惑いながら、4月にしてはすこし冷え込む夜の10時前、「翼をください」を弱々しく口笛で吹きながら、急な錦華坂を下って、帰りについた。 

「2012年(平成24)4月10日(火)晴

 今日は、久しぶりに、ゆっくりと、あれこれ思い及びながら、午後の錦華坂を登った。昨日、今日と、初夏を思わせる陽気に気持ちもゆったりとして、遅い今年の満開の桜が、錦華小学校の校庭に咲き誇っているのが遠目に見え、別の時間がそこにあるような気がする。

[4月10日]は、3歳年長の、すぐ上の兄の命日だ。せっかく、頑張って、[昭和20年]に生まれてきたのに、小学2年生になったばかりの春の日に逝ってしまうなんて……。いつもの年と同じように、錦華坂の急な登りに掛かって、そう思ったら、涙がにじんだ。

 あの頃、あそこにあった《至福の時間》のことを思うと、今でも、胸に痛みを覚える。春の嵐の中の儀式の記憶は、同じ天候になるたびに、脳裏で、苦しく、たびたび繰り返される。

 また、同じ4月の、別の、降りしきる雨の日の、やさしかった〈横田君とそのお母さん〉――。二人のことを思い出すと、さらに、視野がぼやけてくる。冷たい春の雨の一日、〈兄〉と同級だった、二年生になったばかりの、学校帰りの〈横田君〉のあとを、その家までついていってしまったら、家に招き入れて、〈横田君のお母さん〉は、小さい子供の冷える身体には、「温かいにゅう麺」が一番だと、ごちそうしてくれた……。

 たった一日の、たった数時間の、それだけの〈思い出〉だけれど、「あの子供の弟」だと、やさしくされた〈記憶〉は、数十年経った今でも、よみがえるたびに身体を、せつなく、温かくする。

 錦華小学校の校庭の、今年の桜の下で遊ぶ子供たちの姿に、凶暴な波がさらって行ってしまった、たくさんの子供たちが思い出される。〈8歳で死んでしまった兄〉の面影も、〈5歳のわたし〉の姿も。

 今年もまた、[4月10日]が来て、過ぎた。」

「「今日の話は、昨日の続き。今日の続きは、また明日。」などと、大昔の楽しかったラジオ番組を思い出しながら、昨日はここに、あれこれたくさんメモしたのに、「保存」を失敗して、パアになってしまった。その徒労感たるや、人生を失ったような、これまであまり感受してきたことのない類のものが新しく開かれたような、奇妙なものの始まり、始まり……だった!

 ちなみに、冒頭のラジオ番組は、いまの「ラジオ日本」、昔の「ラジオ関東」で、先日亡くなった【前田武彦】と【大橋巨泉】と【草笛光子】さんの【妹の大島さん】とで、平日に毎晩、放送されていた、びっくりの、楽しい、すごくおしゃれな番組だった。

 高校時代の夜の10時台は黄金の時間帯だった。ケン田島の「ポート・ジョッキー」なんて、番組の冒頭にビリーボーン楽団の「浪路遥かに」が流れてきただけで、毎晩、ヨコハマの港から出て、太平洋を行く船の光景が思われて、胸がいっぱいになったものだ。

 あの【森山良子】もディスクジョッキーをやっていた。

 野毛の「ラジオ関東」は最高だった! など、と、「昨日の続き」を調子に乗って、綴り終えていたのに……。」(2012年3月16日〔金〕)

「今日も、また、地下鉄半蔵門線の神保町駅に電車が着いて、下車しながら、〔神田貧乏町か……〕と思った。喫茶「ラドリオ」の近くにあった「昭森社」の、木造の建物の急な階段が思い出された。二階のワンフロアに、机と椅子の3、4組があって、零細出版社が同居していた。学校を卒業するとき、詩の雑誌「詩と批評」が好きだったので、雇ってもらえないかと、訪ねたことがあった。話を聞いてくれたその人が、後になって知ったのだが、【神保町のバルザック】と呼ばれていた有名な編集者/社長の【森谷均】さんだった。「高校生時代に、雑誌で批評されていた、【吉野弘】さんの『消息』という第一詩集について問い合わせの葉書をお出ししたら、親切な返事を頂戴して、その葉書を大事にしている」ことなど、緊張して話したのだった。とにかく熱意だと、出来の悪い学生は、近くで、いきなり電話して、これからお訪ねしたいと言ったのだったか……。

 地下から、靖国通りに出ると、北村太郎さんの詩に織り込まれていたので知った、小唄の文句、「恋しい人に淡路町」が、口をついて出た。【神田淡路町】はすぐそこだ。そうなると、【神田駿河台】で、バカの一つ覚えの【一心太助】の像以外に、一つひねらなければいけない、などと思いながら、錦華坂に差しかかると、やっと、来たのだった……。

「今日は良いこと駿河台」……、〔座布団一枚!〕と、急坂を登った。

 今日の、この話の〔続き〕がとても傑作なのだが、夜も更けて、わが家の老犬「机龍之助」がうなりだしたので、早くあやさないと大変なことになるので、今日の話はここまで。続きは、また明日。」(2012年3月13日〔火〕)

「今日は、また、久しぶりに、地下鉄の九段下駅で下車する。地上に出る前に、トイレに寄ろうとしたら、改装中だったので、諦めて、そのまま上に上がろうとしたら、通路の脇にある「宝くじチャンスセンター」が目に止まったので、久しぶりに【ロトシックス】でも買ってみようと思う。【宝くじ】にでも当たったら、「お金を貰って仕事をしなくてもすむ」、「こちらの資金で本を作ってあげられる」と、いつも、みんなに言っているので、念じて、ときどき購入する(……ほんの少しだけどね)。

 ちなみに、【大田美和】さんは、当たったら、「賞」を創設すると、「北冬013号」の「99の質問」で答えている。

 靖国通りを歩いていると、1月に亡くなったOさんのことが思い出される。【専大前交叉点】にある【珈琲館】の中をガラス越しに覗くと、姿が見えて、一緒にコーヒーを飲んだこともあった。その姿も、もう、戻ってこない。

 それほどの距離を歩いているわけでもないのに、すぐに、足の甲、足首、脹ら脛などに、明らかに負担がかかり始めているのが分かる。この冬は、ひどい寒さに、わが家の老犬「机龍之助」と一緒にいる時間が長くなり、彼を【お姫様抱っこ】することにばかり気をつけていて、足元がおろそかになっていた。それでも、「机龍之助」を脇に寝かせて、【階段踏み】は少ししていたので、大丈夫だろうと、油断をしていた。早く、「春よ来い!」だ。

 いつものように、駿河台へと、錦華坂を登りにかかって、また、【一心太助】が思い出された。そういえば、私立の中・高の教師をしていた【江田浩司】さんが、「諭旨退学」と「自主退学」の違いを教えてくれた。「公立」では「諭旨退学」はなく、そういえば、「この学校には、もう置いておけないので、自分でおやめなさい」と、教頭から親の前で言われたのだった。「不祥事を世間で問題化」したくない、「大人の汚さ」を、その時、初めて覚えたことを、思い出したのだった、など、と……。」(2012年3月6日〔火〕)  

「今日も、また、すこし緩んでいた冷気が、ひどく刺々しく戻ってきて、鼻先を冷え込ませる夜の10時過ぎ、「なごり雪」を口笛で吹きながら、錦華坂を、"いいかげん、この歳になって、こんな時間に、仕事を終えて、一人帰宅の途につくなんて。外で一杯やることもなくなり、みんな、そろそろ家で寝にかかる時間なのに。“……などと思いながら、「東京で見る雪はこれが最後ねと/さみしそうに君がつぶやく/なごり雪も降るときを知り/ふざけすぎた季節のあとで」と、歌詞を思い出しながら、ほんとうに、あの[ふざけすぎた季節]を終わりにして、遠い昔に、鳥取に帰って行った友達のことを、メロディーにのせて、例によって、あれこれ思いながら、下った

 大塚久子さんの歌集『桐花の記憶』の贈呈分の発送もほとんど終えた。良い読者に恵まれることを切に願うばかりだ。

 生沼義朗さんの、尖鋭な新歌集『関係について』の初校のゲラ校正も、あと少しのところまで来た。[読み手のノドにトゲ刺す歌集]が実現しそうで、力も入る。「投げ込み付録」の進行、「装丁」の打ち合わせなど、「春よ! 春よ!」だ。

 それと、まだ、「大発表!」には到らないが、久しぶりに《ベストかつロング・セラー》狙いの、内容充実の1冊も、少しずつ進行しているところだ。「決定稿」になるのを待ち望んでいる「作品/企画」も、何冊も、順を待っている……。

 巨大震災から一年、自分の場所で、自分の出来ることを、速い流れに橋を架けるように、慎重に、丁寧に、など、と……。」(2012年2月27日〔月〕)

『いま、五木寛之』、月刊「面白半分」昭和54年7月臨時増刊号
『いま、五木寛之』、月刊「面白半分」昭和54年7月臨時増刊号

「今日も、また、あれこれ思い及びながら、明大通りから山の上ホテルへの急坂を登った。

 去年の11月の下旬に亡くなられた「面白半分」の名物社長/編集者の佐藤嘉尚さんのことを、折々に思い出すが、ネットで古本を探していたら、懐かしい雑誌が目に止まったので、注文した。佐藤さんと一緒につくった最初の雑誌だ。手元に1冊保存してあったものを、ずいぶん以前に、資料として人に貸したまま、それきりになってしまった。表紙の取れた、「編集用」だった1冊しかなくなっていた。

 届いた雑誌をあらためてパラパラ見ていたら、五木寛之さんと富士正晴さん、また、五木さんと宇崎竜童さんの対談が、同じ日の昼と夜に、大阪・茨木と京都で行われたことなどが思い出された。もう、遙か30余年も前のことだ。生身の五木さんと出会って、そのあたりから、自分自身、「いまここ」を繋いで、[このここ]に到るばかりだ、という思いで、ずっと来るようになった。それは、いま現在でも変わらない。

 「超巨大震災」に襲われて、ひどい「虚無感」に苛まれて、昨年は、はかばかしく「仕事」もできず、「3冊」しか本を造れなかった。「それでよく食えるな」と言われれば、「霞を食って……、2食を1食にして……」と答えるばかりで……。それでも、「死んでも死にきれんから」と、先延ばしにしてきた本に真向かってきた。

 佐藤さんの死や、この正月の年長の友人の死に出会って、その思いは、いっそう強い。似合わない言葉だが、「いまここを、粛々と……」など、と……。」   (2012年2月22日〔水〕) 


「今日も、また、夜の10時近くに、冷たい空気の中、明治大学10番館から聞こえてくる、あまりうまくない、なんの曲かもよく分からない音につられ、「夜空のトランペット」を口笛で吹きながら、錦華坂を下った。

 2月も半ばになると、春3月に緩む冷気も思われて、そろそろ、あれこれの企画に拍車を掛けようという気持ちが強くなる。タスキに掛けたカバンのほかに、肩に掛けた布袋の中には、大切な近刊の歌集のゲラ、生沼義朗さんの『関係について』……。

「良いレーベルから話があったから」とか、「とても良い条件が提示されたから」とか、しかも、あと出しジャンケンで、あるいは、ヒドイのは、【無音/無明】の領域に達して、平気で[約束]を反故にし、厚顔を無恥でいっそう厚く化粧して、「壇」を縦横/往来する美男美女が多い中で、生沼さんは、10年も前の「約束」を、こんな出版社を相手に、律儀に、果敢に、果たしてくれている。もう、2年越しの進行で、二人で、頭はひねりつくした。

 ただ、「超巨大震災」を体験した[われら]が世に問う、それ以前の時期の〈作品群〉をどう位置づけたらよいのか、生沼さんとの「議論」は、まだ尽きない。としても、「魂魄」を込めて、努めるほかない。

 ということなどを思っていたら、舎を出がけに持って出た、遠山景一さんが送ってくれた雑誌「からの」の最新「34号」で、氏は、連載「時にあって思う」に書いていた。

「今度のこと(注=巨大震災)が、もし日本にとって大きな転機となるなら、詩歌においてそれはどんなものになろう。/「答えは風に吹かれている」とは、ある唄の歌詞である。わたしたちにあっては、あるいはまだ「問」そのものが、「風に吹かれている」。わたしたちの今の詩歌について根本におよぶような「問」、根をもった「問」は、どこにあるのだろうか。」

〈今〉にあって、このように〈問うこと〉こそが、もっとも誠実な態度に思える。遥かな昔、「きみの問は何か」と、小説のタイトルにした【氏原工作】は、どこへ行ったのだろう? 問うことが、生きることだった時代が、確かにあった。

 そういう、その時代から来たはずの人なのに、【約束】なんてつまらないもの、「業績評価第一」・「現世利益優先」とばかりに、「主題で勝負の当方の企画本」を《現代思想は言い訳上手》に上梓しちまった、チッ!

 まあ、人のことばかりを言えなくて、この小生も、痛恨の【約束破り】をして来たし、今だって、しているところだ。逃げても、来た。いつも、〔大いに恥辱〕と言い訳ばかりして……! いったい、こののち、そんな、この身を、なんとしたらいいのか……?

 遠山景一さんが「北冬」№013に寄せてくれた「長歌ならびに反歌 六篇」が好評なのも、その、表現に表れる「じぶんの生きた現実から練った思い」(同連載より)が、読み手に届くからだろう……、早く、本腰を入れて、本にしたいものだ……、など、と……。」(2012年2月15日〔水〕)

「今日も、また、あれこれ思い合わせながら、錦華坂を、急な登りに差し掛かったところで、いつも、たびたび脳裏に出現する【一心太助】が訪れてきた。

「親分、て、てえへんだ!」と、大好きだった中村錦之助扮する【一心太助】が坂を駆け上がるシーンの、その先は、神田駿河台、月形龍之介の【大久保彦左衛門】のお屋敷だ。「一心、鏡の如し」で生きることができたら、どんなにいいだろう、と16歳で、卑怯な高校教師を殴って、「諭旨退学」になった少年の心に宿った姿、形だった。

 2月の末に降った雪が、日陰のあちこちに、埃をかぶって、薄汚れて残っていた日々だった……、など、と……。」(2012年2月10日〔金〕)

「今日も、また、あれこれ思い及びながら、錦華坂を登った。

 我が家の老犬「机龍之助」を、真夜中や夜明けに介助することが増えて、すっかり朝寝坊になってしまった。昼近く起床して、舎の留守電を聞くと、昨日に引き続いて、「北冬」013号への問い合わせが入っている。連絡先を入れてくれているところへ、すぐに連絡する。書店へは、八木書店から納品できるので、大いに助かる。今号からそのようにできるようになって、《なんて、間がいいんでしょう!》という気分だ。

 行き惑っていると、ときどき、天からの恵みのように、こういうことがある。「ドアが閉じていても、窓のどこかは開いている。」ということが、しばしばだ。昨日、八木書店に10冊納品しておいたので、安心だった。

 舎に着くと、FAXで注文が入っている。「Eメール」には、午前1時過ぎの真夜中に、注文が入っていた。昨秋から、やっと、覚悟して、自分で「PC」を処理することにしたので、即対応できる。これも、《なんて、間がいいんでしょう!》という感じだ。

 個人の読者には、サービスに「№012」も同封する。「送料・振込み代」もサービスなので、1冊630円では、「赤字発行」の上に「出血大サービス!」(笑)だ。「定期購読」をお願いするメモをそれぞれに同封する。ひとりぼっちの、暖房がなかなか温まらない部屋で、発送作業をしながら、次号からは、一号だけの読者へは、「サービス」を見直さないといけない……、など、と……。」(2012年1月27日〔金〕)

「今日も、また、寒中の、冷え切った空気の中、マフラーに顎を埋め、あれこれ、思い及びながら、夜の9時半過ぎ、錦華坂を下った。

「北冬」№013も、すべて送り終え、次の本のゲラや原稿の整理にとりかからなくてはならない。

 今井恵子さんの歌集『やわらかに曇る冬の日』の「二刷」も出来上がって来て、改めて、新年の新スタートラインに立った感じだ。ただ、「重版」は「印税付き」で、著者にも「八掛け」販売なので、ある程度、買い上げて貰ったが、残りの全冊を売り切っても、トントンといったところだ。書店やネット販売では「掛率」があり、定価すべてが売り上げになるわけでもない。短歌関係のいくつかの出版社など、取次の口座を持っていても、間で掛かる手数料を嫌って、読者に直接販売しかしないと聞いたこともある。

 それでは、なぜ、大して儲かりもしない「重版」をするのかといえば、少数でも、読みたいという人に応えたい、その思いだけである。本当は、「商業出版社」であれば、一定程度の注文が溜まってから、刷り増しの判断をするのが普通だ。また、「初版」の時でも、純粋な自費出版であれ、買い上げて貰う本であれ、著者任せのものであれ、「こちらの費用」で、少し多めに造っておくのも、多くの著者は、必ず少し足りなかった、と思い始めるからである。そのくらい、「納得のゆく本」を造るのだ……!     

 それが、「在庫」となって、置き場所に困りつつも、ゆとりのある気分ももたらしてくれる。ある本を小社に直接注文してきてくれた読者に、「おまけ」と称して、別の、余裕のある本を、ぜひ読んで欲しい、とサービスしたりできる。

 デビュー前の「黒瀬珂瀾」さんなど、小社に電話で直接注文してきてくれたので、別の本を一冊サービスしたら、その後、知り合ってから、「北冬舎は一冊買うと、別の本が一冊ついてくる、と喜んでました」と言ってくれた。ことに、若い読者や、どうしてもその本が読みたい、その著者のファンだから、と直接に注文されると、他にもこんな素敵な本があると、送料も余分に掛かるのに、別の本も、つい調子に乗って、「おまけ/サービス」をしてしまう。最近では、「北冬」誌を付けることもある。

 しかし、「おまけ」に対して、たった一度だけ、「抗議」されたことがある。奈良の女子大の女性の先生が、江田浩司さんの著書『私は言葉だつた 初期山中智恵子論』を直接注文してきてくれたので、その女性の知友である江田さんから「贈呈」されずに、お金を遣わせて申し訳ないな、という気持ちもあって、一ノ関忠人さんの『帰路』を「おまけ」に送ったのだった。すると、すぐさま「メール」で、「せっかくだが、一ノ関さんに失礼だ」と言ってきた。その本は、著者に対して何の条件もない、「印税」分も保証した、通常の制作の本だったから、「在庫」を社が利用するのにはばかるところはないのだった。

「出版の事情も知らないくせに」と思ったが、その頃は、やたらに気弱だったので、一呼吸入れたあと、丁重なお詫びを書いたこともあるのだった。いわゆる、「学者フェミ」という感じの、「正義」なのだった。身近にずいぶん見る、「めんどくさい人たち」なので、無用な混乱を避けようとしたのだった。

 というわけで、「一人の良かれ」も、「万人に普遍」ではないことの「真理」が実証されたのだったな、など、と……。」(2012年1月19日〔木〕)

「今日は、また、夕暮れになって、あれこれ、思い出しながら、錦華坂から山の上ホテルの前の坂を明大通りへ下り、八木書店に、今年初めての納品に行った。

 今井恵子さんの歌集『やわらかに曇る冬の日』の注文が、暮れも、新年になっても、順調に続いていて、10冊届けて欲しい、と言われていたのだが、手元に3冊しかなくなり、それを納品したら、初版は保存用の2冊、編集用の1冊を除いて、ついに、すべて売り切れてしまった。まだ注文が溜まっているので、16日の「重版」の納入が待ち遠しい。久方ぶりの、《こんな感じ》を喜ぶ。「北冬」№013号の「池袋ジュンク堂」からの受注、もう亡くなられてしまったが、桂芳久先生の『誄(しのびごと)』も納品する。

 悲しいこと、喜びごと、こもごもの、創業17年目の新年の始まりだ。

 そういえば、17年前、頼まれて、初めての歌集を、「壇」の【実情】をまるで知らずに刊行したら、その娘さんが属している【グループ】の親分に、「どこの馬の骨が始めたんだか……。」と言われ、挨拶がなかったと、娘さんの親まで、静岡から呼ばれて、土下座までさせられた、とか、など、それ以来、一度も、どこの親分にも【仁義】を切らないので、繁盛しないことおびただしいなあー、など、と……。」(2012年1月10日〔火〕)

「今日は、また、明治大学生に後ろから追い抜かれつつ、あれこれ、思いわずらいながら、頭上に素晴らしい黄葉を拡げる大銀杏を見上げ、振り返りして、錦華坂を登った。この夏に、道路に張り出していた太い枝が切られ、銀杏が落ちて、車や足につぶされて、素敵な匂いが漂うことがなくなったり、頭上もすっきりして明るくなったが、ある種の暗い翳がなくなったのも、単純化という感じで、やや寂しいか。明治大学中村幸一教授のことも思った。まもなく出る、遅れに遅れた「北冬」013号に、「連載」と「大田美和特集」と大活躍してくれている! 実力が、もっと、良い編集者・読者に発見されると嬉しいのだが、など、と……。」(2011・12・20〔火〕)

「今日は、また、昨日、氷雨降る中、「東北」に降っているだろう雨のことなど、あれこれ、思い惑いながら登って来た、山の上ホテルへの坂を、午後の4時前、少し弾む足で下りながら、あれこれ、思い及んだ。

 取次業務をお願いしている八木書店から、「店売用」に、今井恵子さんの新歌集『やわらかに曇る冬の日』の注文が「5冊」あった。歌集がとても好評のようで、書店からも、今井さんの手元からも、注文に応じて納めていたら、アッというまに、在庫がなくなってきて、これで、あと、予備も含めて7~8冊になってしまった。発行から、まだ、ひと月で、今井さんのところへも、購入申し込みは続きそうだし、来年になって、あちこちで紹介されたり、結社の「まひる野」で取り上げられたりしたら、まるで足りなくなってしまうだろう……、いよいよ、本気で、「重版」を考えなくては、など、と……。」(2011・12・9〔金〕)

「今日は、また、氷雨のあとの錦華坂を登りながら、あれこれ、思い及んだ。

 12月の1日になって、神保町の地下鉄を上がったところにある寒暖計が、この季節、初めて、10度をきり、8・4度になった。「東北」のことを思うと、身が痛むようだ。いつの頃までだったか、上野駅には《0番線》のホームがあって、歳末の寒い一日、岩手の水沢に帰省する友人を、よく、見送ったものだった。真夏の入口に、たった一度だけ、盛岡に帰るともだちを見送ったこともあった。どうか、「東北」に、あまり厳しい寒さが襲来しませんように、など、と……。」(2011・12・01〔木〕)

「今日も、また、錦華坂を登りながら、あれこれ、思い及んでいたが、すぐ脇の「錦華公園」の小道から雀が20数羽飛び立ったので、何を思っていたのか、忘れてしまった。思いは、屈していた。

 朝刊で、佐藤嘉尚氏の訃報に接していたからだ。30年前の、荻窪の「カーサヴェルデ」の日々が、立ち上がってきた。みんな、若かった。共にしたのは短い日々だったが、さまざまなシーンの、一つ一つの印象を、深く相手に刻む人柄だった。  

 この三月の、巨大震災後の日々、うつろな思いの中にいて、どの本を手に取ってもしっくりこない末に開いたのが、佐藤さんの「集英社新書」の一冊、『「面白半分」の作家たち」だった。「戦後日本」が、一番【真実味】に溢れていた時代だった。佐藤さんの《心身》に、ピッタリの時代だった。

 ギターを抱え、歌いながら空を往く姿が、見えるようだ。

 68歳、とは、若過ぎやしないだろうか。ご冥福をお祈りします。」                            (2011/11/21)

「今日は、夜の九時半過ぎ、錦華坂を下りながら、あれこれ、思い案じた。

「途上」にある気分というのは、なかなかのものだ。この「ホームページ」を何とかしようとして、ああでもない、こうでもないとやっている「途上」の日々こそ、まるで「完了」のない「宙ぶらりん状態」の継続で、この緊張感にどこまで耐えられるのか、などと……。」(2011/11/17)

                   *

「今日は、九段下から神保町へ、靖国通りを来ながら、あれこれ、思い及んだ。

 巨大震災前の、今年の2月、東大和市の84歳の方から2枚続きのはがきをいただいた。ずいぶん前に、さいとうなおこさんのお母さんの三宅霧子さんの遺歌集『風景の記憶』を購入して下さった。そうして、「装丁、文字(活字)の美しさ、細やかな配慮など」を気に入って下さって、「歌集を出すなら御社と決めていました。」という文面だった。誉められると、年甲斐もなく、{木にも登る}思いになってしまうのだった。そして、巨大震災、酷暑の夏を越え、ようやく「ゲラ」の出稿にこぎつけた。「選歌」から始めて「散文原稿」の修整に至り、いよいよ「装丁」のプレゼン待ちだ。{とにかく、期待に応えなくては、な}などと……。」(2011/11/09)                   

                   

「昨日は、明大通りから〈山の上ホテル〉への坂を登りながら、あれこれ、思い惑った。

 今井恵子さんのあざやかな歌集『やわらかに曇る冬の日』の贈呈発送もほぼ終え、うれしい〔反応〕もチラホラ訪れ始めたので、例によって、遅れ遅れの「北冬」№013、《特集◇大田美和責任編集[1000年の言葉]の向こうへ――。》のゲラも出たので、いよいよ、早めの発行を目指して、進行させねば、などと……。」 

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「今日も、また、錦華坂を登りながら、あれこれ、思いわずらった。

 十全に意を尽くして出来上がった、[この現在そのもの]を、やわらかいまなざしで捕まえた、最新刊、今井恵子第五歌集『やわらかに曇る冬の日』(A5判・208頁・2400円)の魅力を、もう少し、広く伝える方法はないものだろうか、などと……。」 

「今日もまた、錦華坂を登りながら、あれこれ、思い悩んだ。

 今年の7月から[神保町・八木書店扱い]で、北冬舎の本が、以前のように簡単に、[取次]を通して、[全国の書店]に届けられるようになったので、書店で注文でき、購入していただけることを広くお知らせするには、どうしたらよいのだろうか、など……。」