ニュースⅡ☆2013                      

           ◇無為をかこつ(暇がなくなった)《漂柳舎蛙蟬》のぽつぽつな異想◇

2013年12月31日(火)

 いまは、午前1時を回って、いつもなら、「30日(月)快晴」などと記すところだが、今日は、今年も、いよいよ残すところ22時間強、ということで、新しい日付にしてみた。

 

 むかしむかし、少年時代に、3年くらい続けて、年1回は読み返したほど愛読した下村湖人の『次郎物語』に、「無計画の計画」という1章があって、その[新鮮な発想]に魅了され、その後、それを信奉して生きてきた気がする。

 とはいっても、それに名を借りた、「惰弱」な精神が送る、「計画性のない安楽な日々/人生」という、[ほぼ、いきあたりばったり日々/人生]になって来ていたのだが、2~3人の、よく言ってくれる人は、「そういう日々/人生も、なかなか出来難い。なかなか度胸のある生き方である。普通の人々から遠く離れている」と、ただただ呆れる様を通り越しての讃嘆の言葉つきをしてくれるので、それに気を許して、楽なほうを来たのだったのだが、今年は、生まれて初めて、「計画性」に遵奉することが、とても[新鮮な発想]に感じられて、そのようにやってみた。

 

 まず、なによりも【予定】が大事なのだった。これまでは、「予定を立てて日々/人生にあることのつまらなさ=予定するその時が確かに来る怖ろしさ」というようなことであったが、ここまで【齢】を重ねて来ると、逆に、「予定を立てて存在する、その面白さ=楽しみ」のようなものに眼が開かれる。

 老齢の多くの嘆きは、「生き行く【目標】のない日々の到来」というものだが、なにはともあれ、【予定】を[苦役]からできるだけ遠ざけて、つまりは、「労働は懲罰であること」から遠く離れて、それを立ててみる楽しみを、まず見いだして、そうして、喜びに変えてみたいなあ、などと思ったのだった。

 そんな一年だった。といっても、この4月以降からのことであったが。

 

 それと、もう一つ、「朝早く起きられない少年」だったので、【夏休みのラジオ体操】に、せいぜい3日続けてくらいしか参加できなかったのだが、それが、この夏の始まりに始めて以降、「昼に近い遅い目覚め」ながらも、3日ほど休んだくらいで、ずうっと続けている、たいへん感心な、そんな半年であった。

 おかげで、足の運びが、ややスムーズになった気がする。

 本造りの打ち上げの食事会のお礼に、下の写真の【DVD付き本】を二人の方にプレゼントして、「普及委員会」の一員になったつもりでいるが、とっくの大昔から、その素晴らしさは普及されていて、いまさらのようだが、【好意】を新年も押し売りする【予定】を保持してゆきたい。

【本】を差し上げたお二人のうち、ご年配のお一方は、効果はまだ未確定ながら継続しているとの「喜びのお知らせ」を頂戴したが、いま一人のやや若い方は、頻繁に連絡事項があって、「メール」のやりとりや用事でお会いしても、ウンでもスンでもなくて、今のところ、【老齢の身の生きる目標】にいささか影を落としている状態である。


2013年11月26日(火)快晴 暖 夜冷

 誰がかってに、いつのまにか、人の誕生日に名付けて、「いい風呂の日」だそうだ。

 今日は、「私」の何十何回目の「誕生日」だ。ここ何十年も、格別に誕生日に何を思うこともなくなっていたが、今年は、「三十歳」になった時に覚えた以来の、それなりの感慨がやってきた。

 思えば、三十歳になった時、実に、遥かに、歳をとったなあ、と打ちのめされる感じになった。そこから数十年、延々と、

 

 「私は生きる上での即興派だった。何の計画もなく生きてきた。にもかかわらず、それらが自(おのずか)ら統一されて一つの音調のようなものを形成していた。これが人生だ。まことに不思議の感に堪えない。」

 

 秋山駿さんの『人生の検証』の「あとがき」の一文だ。

 こちらの生に「一つの音調」が、いまのところ、形成されているかどうかは知らないが、少なくとも、場当たり的な、ちょっと格好のよい言葉すぎるかもしれないが、「即興派」であったことには、とても近いだろう。

 なにせ、対価を得た仕事先にしても、両の手の指でも足りない体たらくぶりな「人生」なのだから。まわりにいた人間にとっては、とてもじゃなかったろう……。

 

『人生の検証』は、秋山さんが「60歳」を目前にして、「自分の生きた跡を振り返って見ようと思っ」た本だ。

 

「私は或るときは良く生き、また或るときは悪く生きたのであろう、しかしそんなことには関(かか)わりなく、その全(すべ)てを含んで、私にとって掛け替えのない一つの人生が在った。無考えにでたらめなことばかりしてきたのに、そこに一つの人生が存在する、ということに私は不思議の感を味わった。」(『人生の検証』「あとがき」より)

 

「12章」に書き分けられたテーマの最後の章は、「死」である。

 この「最後の章」の「最後の七行」は、何度読み返しても、目にうっすらと、切ないものを滲ませる。

 また、この「新潮文庫」の「解説」を書いている、【松山巌(いわお)】さんの「最後の六行」が、そしてまた、いいのだ……。

 あまりにいいので、勿体ないから、「これは引用しない。」(松山巌「解説」より)。

 

 昼間の高校から抛擲された16歳の定時制高校生は、ただ「世界」から遠くあるためにだけ、「世界」に目をやらないためにだけ、ぽつんと一人、夜の電車で、手当たりしだいに「世界文学」を読み耽っていた。

 最近、同じ駅で乗り換えるようになったその電車に、数十年後、同じような時間帯に一人乗って、あらためて、秋山駿さんの『無用の告発』に収録されている「わがプルターク」を読み返せば、遠く来ても、相変わらず、躓いている「生存」が思われるばかりだ。

2013年10月5日(土)雨
 終日、家。11月に刊行する歌集のゲラ校正を、沈む思いのうちに続ける。途中で「メール」を開けたら、一人の誠実な方の誠実さについて、誠実な方から誠実な報せが入っていて、こういう方たちに救われて、この、ここの、【凡人】があり続けられるのだと、深く思う。

 

 昨日は、新刊の「発送作業」も一段落したので、ゆっくりと、あれこれ自宅作業にすることにしていたが、広げた朝刊に、秋山駿さんの訃報が載っていて、がっくりくる。

 ここ数年、ずっと、「世間」を狭くしてきていたので、あまり人の動静についても知らなくて、秋山さんについても、特に知ることはなく、この5月に、久しぶりに氏の著作『「生」の日ばかり』を買ったら、それがもう、2年も前に刊行されていた本だったので、愕然とした。

 それを、この極熱の夏の、極労の合間に読み継いでいたところだった。2、3年前に、『人生の検証』を読んで以来であった。

 

 秋山駿さんには、〔一人ぼっちの高校生時代〕に「季刊藝術」に載っていた『プルターク英雄伝』についての評論を読んでから、その後、知ることになった「内部の人間」への氏の関心の持ちようが、とてもしっくり来て、ほとんど(私淑)する思いで来ていた。

 初めて勤めた雑誌の随筆欄に、ぜひ書いてもらいたくて、また、それを機会に氏にお会いできるのが嬉しくて、早稲田大学の近くの喫茶店まで原稿をいただきにあがったのだった。

 当時、大学をなんとか出て、拾ってもらったような勤め先の宗教団体の月刊機関誌についての話や大学時代のことなど、あれこれ氏に聞かれても、すっかり上がってしまって、どんな受け応えをしたのだったか、その直後も、もちろん今にいたっても、まるで覚えていないのだが、秋山さんが洩らしたひと言の「他者への関心」の持ち方が、とても氏らしくて、相手に対するその「分け隔てのなさ」は、特別に、ファンにとっては、強く印象されるものだった。

 

 秋山駿さんの、こちらの記憶に残ったひと言は、「君はかわったところに勤めているなあ。」というものだった。そう言われて、”ああ、この人は、分け隔てのない人だな”と、こころがやわらかくなった。

 入りそこねた早稲田大学に近い喫茶店にいればいたで、自分の出た大学にコンプレックスを覚え、いろいろな事情の末に入れてくれた出版社だったのだが、入れてもらえなかった有名出版社に対してコンプレックスを持つような、そんな(人間)にとって、その「別け隔てのなさ」は、特に暖かかった。

 それから数年後、詩の雑誌に勤めている時、氏が鮎川信夫さんと「対談」されて、それを終えたあと、新宿の文壇スナックあたりだったと思うが、その席で、以前の話をしたら、「そうか、そうか、君だったな。よく覚えているよ。また、会ったな。」と、あのにこにこ顔で、応対してくださったのだった。

 

 その後、奥さんの法子さんにも装丁のお仕事をしていただいたご縁もあったりしてきたのだが、もう、30年近くも交流もなく、ただの読者でいた。

『「生」の日ばかり』にも、こちらの内部へ食い込んでくる「言葉」がたくさんあるのだが、法子さんの「痛み」について、あるいは「老いの現実」についてなど、ただただいたわしい「日々」にあることを知るばかりであった。

 雨が落ちてきそうな、どんよりした空の下、『「生」の日ばかり』を手にして、近くの鶴見川の土手を、すっかり筋肉の衰えた足でよろめきながら、しばらく「歩行の思索」をしていたら、毛並みの色艶も、肉付きもいい、2匹の野良らしい猫が、餌でもくれるかと思ったのか、足元にまつわりついてきたので、静かに立ち止まっていると、いつまでもそうしていそうなので、かまってやる余裕はないよ、とバイバイをして、「歩行の思索」に戻ったら、やはり、また、胸に酸っぱいものがこみ上げてきたのだった。

 

 近くの喫茶店に入って開いた『「生」の日ばかり』の一節――。

 

「さようなら、と、法子(妻)がいつまでも両手を上げて振っている。路上に立ちつくし、乗ってきた車が立ち去ってゆくのを見送っている。さようなら。また、手を振る。わたしも歩き出すのを止めて、じっと傍に立っていた。/ …… /立ち去ってゆく人と車、見送って立ちつくすわれわれ二人。現実に出現したこの一幅の絵の全体に対して、別れを告げる、という感じなのだ。ひどく懐かしいものに包まれる。この懐かしさは何なのか。ふと、永遠に向かって別れを告げるのだ、という奇妙な感覚に襲われる。/…… まだ手を振っている。見えない彼方へ――さようなら。/…… 生きるということの奥底には、声にもならぬ人の思いの深い海があり、その海から思いを吸って生きているのが心であり、心はこの深い海のことを、「あはれ」と呼んだ、と。」

 彼方に向けて、手を振り続ける――、さようなら。

上村隆一著『中村教授のむずかしい毎日』の一章「むずかしい、食べ物。」の「章扉」のカット。多才な上村隆一さんの絵心には、デザイナーの大原信泉さんも感心する。本書、全11章の各扉に入っている一枚。

2013年8月18日(日)快晴/暑

 終日、家。室内の温度計の針が、ずっと、31度を指したままのような気がする。

 

 今日は、じつに久しぶりに、「原稿」からも、「ゲラ」からも離れて、とても〔フリー〕な感じがする。このところ、ずっと、自宅にいても、「自宅執務/作業」の切迫する気持ちでいたので、ほぐれる。

 心苦しいまま、溜まっていた「連絡」も、数人に「メール」を入れることができたが、返事がまとまらないので、先送りにしてしまう人が残ったので、まだ、苦しさが少し残る。

 

 また、上村隆一著『中村教授のむずかしい毎日』の「広宣流布」のために、「ツイッター」を再開することにして、少しやってみる。試しに、初めて「本の写真」を掲載してみたら、簡単だったので、ホッとする。

 

 先の、古谷智子さんの『幸福でも、不幸でも、家族は家族。』から、書店への流通を扱ってくれている「八木書店」通しで、「日販」→「アマゾン」へと登録がされることになった。一人でやろうとしたこともあったが、「写真」の扱いなど、けっこう大変だったので、こんなに有り難いことはない。

 「ネット注文」の可能性も開かれて、このところ、なんだか、〔恵み〕を感じる。

 

 それにしても、このところの極暑のせいもあるだろうが、春以降の「机齧り付き虫化」のはなはだしさで、すっかり、足腰が弱ってしまった。いまや、歩くのがやっと、という感じになる時もある。なんとかしなくては、と今日は、心底より思った!

 今月末の、もう「2冊」の誕生も、間近だ!


2013年6月9日(日)曇

 早めの梅雨に入って、もう何日くらい経つのか、すぐにはしかと思い出せない、そんな日にちの過ぎ去り方の中にいて、「なんだか、気象庁が、例によって、先取りするような言い訳がましい【梅雨入り宣言】だったな。世の中、あれこれ、やっと不景気風から、多少なりとも元気が出そうなところに来ていたのに、鬱陶しい季節の告知も、言い訳の先取りのようなものなら、すこしはその【タイミング】を考えたらよさそうなものなのに……。」と思ったところまでは、【宣言後】三日目だったはずの、記憶のうちにあるのだが……。

 

 やはり、一昨日も、昨日も、今日も、雨はまったく降らず、時間によっては陽も射しているが、なんとなく、少し雲の多い日が続いて、ようやく、【梅雨入り近し】の感じだ。【気象庁のエリートさん】たちはほんとうに【頭脳のエリート】なので、【体感覚】など、これほど信用ならないものはないという判断が、子供の頃からの【確信】なのだろう。

 

 なんて言ってみたかったのが、「5月27日(月)」以来の、「HP」への書き出しだなんて、あきれたものだが。

 いや、それにしても、このところ、この「ニュースⅡ」への書き込みだってひと月ぶりだし、なかなか時間がとれないくらい、旧弊から抜け出た、新しさへの仕上げのように、通勤ルートも新規になり、ほんとうに{こころを新しくして毎日}を送っているのである。

 

 何が{新しいこころ}でというのか、改めて披露するほどのことではないので、ただ{次々の新しい本の完成と次々に控える新しい本の編集に一生懸命}に取り組んでいる、とだけ言っておきたい。

 そのうちの一冊が、中村幸一さんの『佐藤信弘秀歌評唱』だ。佐藤さんは、中村さんが所属する、沖ななもさん代表の「熾」の先輩で、それ以前に所属していた「個性」からの先達でもある。

 中村幸一さんは、秀でた抽象/観念の刺激的な短歌を作る佐藤信弘さんを尊敬して、その作品の「鑑賞」を「熾」で続けてきた。残り2歌集となったところで中断していたが、残りの作品鑑賞を、このたび、書き下ろしで終え、一冊にまとめることになった。

 

 ここに掲載した本の画像は、その佐藤信弘さんの「第五歌集『昼煙火』」の書影である。本書は、シュールレアリスト/モダニスト「古賀春江」の画に触発されて、その作品に挑んだ「散文と短歌」でひとつの世界を達成した、傑作作品集である。

 

 その一篇「〔葱坊主〕」より――。

 「……/どっちにしようか、とは言葉だけで、まだ右の道も左の道もよく見えていないのに、微笑と苦笑をとっかえひっかえ振り撒けば、人間嫌いの本音が潜み隠れるひとさしゆびの爪のあいだ。

 「なみだなみだそはなにほどの あたひある こころみに世にながしても みよ」唐辛子色のとんぼがとまりかけた葱坊主のうしろからまたぼそぼそ声で、どうする心算だ。どうするつもりだ。」

 

「なみだなみだ…………こころみに世にながしても みよ」と読んだところで、涙が滲んだ。溢れそうになった。

どうするつもりだ。」!

 そんな声を、ずっと、一生、聞き続けているような気がする。

 中村幸一さんの『佐藤信弘秀歌評唱』を、お楽しみに!


2013年5月10日(金)晴 暑

「晴 暑」とは記したけれど、今日は、終日、秋まで仮住まいのマンションの一室に、ほとんど籠って、「ゲラ校正、原稿読み」に精を出していたので、あまり「暑さ」を感じなかった。それどころか、机の足元から、まだ冷えが上がってくる感じで、夜ともなると、弱めのヒーターにお世話になるありさまだ。

 

 ようやく、あれこれ腹をくくって、なんとか「北冬」も出せたので、今年の後半から来年にかけての仕事に思いを凝らす。すると、よくしたもので、長年の〔口癖〕のように、「捨てる神あれば、拾う神あり」で、ほんとうに有り難いことに、このところ、編集・出版の依頼が立て続いて、本気で、真面目に、段取りよく仕事をしなければ、追いつかなくなってしまいそうだ。

 

「北冬舎は仕事が遅いから、ほかの出版社に頼んだほうがよい」などという的確な【アドバイス】をされる【先生方】もおられる中、こらえにこらえ、〔編集の手順〕だけが大事だと、こらえにこらえられない〔肉体〕をなだめなだめ、〔一冊一冊、原稿読みから贈呈発送まで〕を、毎月一冊、自分一人でやるほどまでの〔体力+気力〕が、いつでも、どうにも、続かないので、甘んじて【汚名】を着続けることにしているのである。

 おお、声を大にするほどのことでもないか……!

 

 にしても、「北冬」014号の発行が、「№013」から1年以上も経ってしまったのは、ほんとうに情けない。雑誌を出し続けるための〔気力+体力+経済力〕の自信が揺らぎ出していたことが、やはり、その原因の一端だ。単行本であれこれ維持してきたのも、長いこと、大変なことだったのに、〔雑誌の赤字〕を持ち出しして、〔3食を2食〕にして、《働けど働けど……》でも追いつかず、いや、それほど【労働】していやしないぞ、と【谺】はすぐにかえってくるけれど、なかなかのことをやり続けてきたのだ。

 

 そんな思いに、あれこれと、行きつ戻りつしながら、「北冬」014号をすべて送り終えるか終えないうちに、「予約購読」の方たちからの振り込みの通知が届いて、しかも、一番長期の「4号分」の予約の方がほとんどで、手を合わせながら、〈通知〉を押し頂いている。

「もうちょっと、頑張ったらどうだ」という〈声〉も、そこから聞こえてきて、こののちの〈時間〉へと、先に出現して下さった〈拾って下さる神々〉とともに、改めてこの夏へ、思いを送るのである。

2013年4月30日(火)曇 温

「黄金週間」というものが、すっかり遠い景色に成り果ててしまったのが、とても寂しいと、ならば、これらの日は絶好の仕事日和なのだと、ついに自分に言い聞かせ、遅い目覚めながらも、蒲団から身を、身から蒲団を、引き剥がし、ともかく腹に、あれこれレンジでチンして、納め、机に向かえば、この半月、涙ながらに読まずにはいられない、笙野頼子氏の新刊『母の発達、永遠に/猫トイレット荒神』(河出書房新社刊)の読了まで、もう少しだからと、刊行を急ぐわが社の大部の「ゲラ」を、つと脇に寄せ、やはり、読み込んでしまう……。


「自分はあの海底の布の一本の糸だ。いつも様を変えている。だけど、自分の魂は本当はあの変わり続ける糸の上を飛び渡り続けたい、つまり変わり続けながらひとつの属性に止まりたい、そうでなければどんな言葉も発する事は出来ないのだ ……/…… 縦糸だけの布を織りたいとか ……/ 布の中を飛び移る一本の糸でありたい、と同時にですねえ。/誰からも見えない透明な糸になり、なんの特徴もなくどの模様の一部でもなく、そしてあの宇佐という布の縫い糸になりたい、織り上げられた中にいてそれを縫いたいって、 …… 本気でシリアスでそう思ったわけですよ。」(「猫トイレット荒神」p208ー9)

 

 引用箇所の、これらの「告白」は、ほんとに切ない。流れる涙の海の言葉だ。

「母の発達」も、今度の「母の発達、永遠に」も、〔笑いながら泣いてしまう〕アキ・カウリスマキの映画のみじめな生存に似て、どうにも《やり場のない》哀しみいっぱいの傑作だけれど、「猫トイレット荒神」は切なさいっぱいの「大傑作」だ。『ファウスト第二部』の、あの空を飛び回る存在の《やり切れなさ》に似ていやしないか、などと、、、、。

2013年3月19日(火)晴・暖

 このひと月、〔無為〕をかこつどころではない日々を送っていたが、【世間】も、あれこれ、急激な変化を見せているようだ。

 

 身のまわりの《変化》では、16日(土)から開通した「東急東横線」の埼玉県への直通電車に、昨日、初めて乗った。「東急渋谷駅」が{一通過駅}になってしまったのが、たいへんなショックだった!

 日によって、気忙しく、あるいはノンビリと、ヨコハマの香りをまとって、という感じで、{終点渋谷駅}に到着していたのが、急いで乗り降りする{駅}になってしまった感じだ。

 

 半蔵門線への乗り換えも、ある日はプラプラと、またある日は小走りに雑踏渋谷の空気を吸いながらだったのが、{渋谷川}の遥か底深く、酸素が足りないような、これまた狭いホームから転落しないように気をつけながら、まるで地下10階みたいなところから、距離にすれば3~4階も上り下りしなければ辿り着かない気がする。

 すっかり取り残されたのだろうか?

《アナログ》から《デジタル》への、《鄙》から《都》への変化のように感じるのであれば、時代に遅れたわけだろう。

 

 そもそも、「東急東横線」が数年前に、「桜木町駅ー渋谷駅」から「元町・中華街ー渋谷駅」になったのがいけなかった。

【敗戦日本】の原風景を露出していた思い出の「桜木町駅」が【廃駅】となり、「元町・山下公園ー渋谷駅」ならともかく、駅の命名争いに敗れて、「元町・中華街」になってしまったのを憤慨したのは、身の回りの数人にとどまらなかった。【敗戦民主主義日本】の定着にほかならなかった。

 

 というわけで、学生時代以来使用してきた「東急東横線」の利用は、定期券が切れしだいやめたいと、昨日、思ったのであった。ローカルな感じの「京浜東北線」も使えるのだし! 

2013年2月3日(日)晴・暖

 昨日、今日と、終日、家。桜が咲く頃の暖かさで、身体もだいぶ助かる感じだが、インフルエンザではなかったものの、本格的に引き込んだ風邪が、一進一退だ。36・5度に下がったと思ったら、37・5度にまで、戻ってしまう。

 

「北冬舎孤高炉の会」の写真ができて、参加者にお礼状を書きながら、焼き増しの枚数をチェックする。先ごろ、ようやく「電子カメラ」を購入したのだが、まだ2本もフィルムが残っていたので、最後にするつもりで、27枚撮りで撮影したのだが、当日、撮影途中でフィルムが巻き上がってしまった。

 早めに参加者全員を撮影していたので、洩れている人はいなかったが、もっとあれこれ撮影しようとしたところだったので、かろうじての助けの感じだ。

 

 みなさんの表情がとても和やかだったので、大いに安心するも、こんなことは最近の記憶にないので、やはり、ああいう「会」は似合わないのでやめておけ! という啓示のような気がする。

 フィルムの一眼レフに馴れてきて、これからは「電子カメラ」を駆使して、ここに写真を載せることも簡単になりそうだが、本の表紙写真と違って、選択、判断が難しそうだ。

 ただ、やはり、デジカメでも一眼レフのほうが楽しそうなので、いずれ、と思い、ブツブツ口にすると、「ろくに撮らないのに……」と、すかさず谺がかえってきた。

 

 子供の頃にいつも引き込んでいた風邪だが、齢をとればとったで、また、同じような症状が出てくるような気がする。

 なんとか熱が下がってほしいが、若い時と違って、長時間を寝込んでいることができない。寝るにも体力がいるし、食べるのにも体力がいるしで、いつだって、その年齢に応じた《困難》に出会うのが、もちろん人の定めというわけだ!  

2013年1月30日(水)晴

 ずいぶん気をつけていたのだが、ついに風邪を引く。咳き込むほどまでにはいかないが、ちょっと咳をすると、胸が苦しい。

 なかなか起き上がれず、少しお腹に入れなくては、と12時過ぎ、やっと起き上がり、熱を測ったら、37度ちょうどだった。食事して、近所の医院に行く。「インフルエンザ」かもしれないと思って行くも、検査したら、「マイナス」だった。

 

 15年ほど前、年末年始にインフルエンザにかかり、医者にも行かず、ひどいことになって、それ以来、タバコをやめたりして、子供の頃から風邪を引きやすいのを、なんとかしようとしてきた。 

 喫煙は、喉も肺も傷めるが、胃腸にも悪い。禁煙して、ありがたかったのは、まず、胃炎の症状が治まったことだった。ひどい胃潰瘍も、それ以前に経験し、あまり食べないこともあって、10キロ近く痩せて、周りからあれこれの病気を心配されたものだった。

 それが、禁煙したら、胃の不快さとすっかりおさらばできたので、胃の不調を訴える友人たちに、禁煙を勧めたこともあった。

 

 この数年、寝るときに首にタオルを巻き、マスクをして寝ている。喉は、夜中に乾いて、風邪菌を増殖するので、潤してさえいれば、かなりな防衛になる。

 とか、努めてきたのに、このところの寒さや、人中に出る用事などが重なったので、防衛線が破られてしまったのだろう。インフルエンザでなかったのは、有り難かった。

 医院から帰って、「北冬」のゲラを見たら、夕食後、38度5分まで熱があがったので、今日はここまでにして、寝ることにする。

2013年1月17日(木)晴 9.4→4.4度

 「寒さ」はそれだけでストレスだ。「冷蔵庫」の中の温度と同じくらいだといえば、暖房が入っていなければ、毎日、「冷蔵庫の中にいる」のだから、寒くて、イヤだ。昔、「冷蔵庫」がそれほど普及していない頃は、「天然の冷蔵庫」を利用していたのに。まあ、「「冷凍庫」の中」と同じくらい冷える場所にいる人もいるのだから……。

 

 今日は、往きも帰りも、九段下を使う。昼の靖国通りは、わりと暖かく、歩道・車道の脇に片寄せられた雪も、大都会東京に息抜きのような情緒を見せている。が、冷えを増した夜の、街灯に照らされた雪は、冷え冷えと光りを反射して、牙を剥いているようで、足を早めてしまう。

 九段下の交叉点の向こうに「九段会館」が見えて、昔は「軍人会館」と言われる建物だったんだ、と「雪の東京」から、普段、あまり思うこともないことを思った。

 

 このところ、「北冬舎の100冊」のまとめに、こんなことをやっている場合ではなーい! と焦りながら思いつつ、時間を取られている。「北冬」のゲラ校正の合間を見ながら、とにかく一区切りまでと、連休を利用して家でまとめたものを、今日、舎で印刷・点検にこぎつける。

 「北冬舎の100冊」といっても、夏休みなどに向けて、よく行われるお奨めの「良書100冊」というようなものではなくて、文字どおりの「100冊」なのである。

【某ブランド短歌出版社】が、以前、「年に60冊ほど出版した」と豪語していると噂に聞いたことがあるが、その噂話の、ほぼ2年分を「18年」をかけてやってきた、という話なのである!

2013年(平成25年)1月1日(火)02:35

 新しい年になって、2時間半ほどが経った。

 この「ページ」への接し方にも、ずいぶん慣れてきて、初めて「新しいページ」を設定してから、「ぽつぽつな異想」をめぐらすことになった。

 

 普段は、一日を終えた時刻に「ページ」に接して、あれこれの「想い」に彷徨するので、「ニュースⅠ」などは「追想」ということにしてきたのだが、すべての「想い」は、《それを表す時は追想以外のなにものでもない。》ということでもある。

 

 昨年は、一言で言えば、[転機の年]であった。いくつかの[サヨナラ]に思いを深くしてきた。一昨年の「超巨大震災」の打撃を濃く引きずりつつ、〈目前の進展〉を心がけることを、とにかく〈一番〉としてきた。公的な場所でも、私的な時間でも、なるたけ、そう言い聞かせてきたのだった。

 

 いつかは来る【別れ】と予測してはいるのだが、その日が、その日になる、とは、なかなか測ることができないのが、〔凡人〕の悲しいところで、【それ】がやって来て、そういう【時間の下】にあったのを実感する

 さっき、大晦日の「年越しそば」に添えられた「エビフライ」を食べながら、込み上げて来るものを抑えることができなかった。

〈生きている日は、エビのしっぽをおまえのために、と……。〉

 

 こうして、[この年]を古くして、[新しくする年]とは、いったい何か?